水はどこから

日常と非日常のはざま

ちょっと前の楽しいことは、必ずといっていいほど憂鬱を連れてきてしまうので、日常のためにそれをぽいぽい手放すのが常になった。気がする。

昨日のように、ちょっと情報量の多い、そう、敢えて自分から学びになど行こうものならすぐ飽和してしまう私の頭、というより心のキャパは、知識以上に空気感や世界観を盛大に連れてきて、ささやかな私の「通常モード」を押し流してしまう。
いつもと違う「手法」が入ればそれは既に、いつもと違う路地でありいつもと違う風景となって、私に訴えかけて来ることになる。
選べ、と。

淡々と、飄々と、滾々と、清々と
流れる水だけが若々しく

蓄積がなければエネルギーはただ生まれては失われてゆくだけだ。
しかし意味を求めることにどれほどの意味がある?

主体のないことば。

そういうものを好んで書いてしまうのは、主人たる私が消えて、言葉が色あせてしまうのを無意識に避けようとしているからかもしれない。
あるいは、夜に書いた手紙を朝に読むという精神力の無駄を省きたいという、ささやかな合理性の抵抗によるものかもしれない。

現実が悪夢を越えたら、こんな傷では済まないだろうに。
最大級の悪夢の悪夢、を、みている気がする。

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