苦しみと喜びと

思うこと

クチナシがあまりに馨しいので、姿をスマホにおさめるだけでは済まなくなって、毟ってしまいたくなる。
箱いっぱいに花弁を敷き詰めても、その瞬間のそのままの香りを閉じ込めることはできないのに。持て余して傷つけるというのは、こういうことなんだろうか?

などと考えていたら、一通のメッセンジャーが入った。
大切な友人。性別も世代も超えてそう言い切れる数少ない友人のひとりから。

おやすみなさいの挨拶に似て、きっとそれだけではないであろうメッセージに、こちらも、おやすみなさいの挨拶に似せて、そっと応える。そんなやりとり。互いを知っていれば皆まで聞くこともない。

おやすみなさい、にしては幾分長いラリーが続いて、最後には大抵、生きることの苦しみと喜びと、祈りについて私たちは話す。

きっと、取り去りきれない苦しみをずっと(もう、日常の一部になってしまうくらいに長く)抱えていて、どんな言葉が慰めになるだろう、ともどかしく感じることもあるけれど、それでも、おそらく、まちがいなく、互いに相手の言葉を不足と感じることなく共に過ごすことができている。と思う。

それができるのは、もしかしたら、互いに「自分が苦しいからこそ、他者にも、今目の前にいるこの友人にも苦しみがあって、喜びがあって、哲学があって、そうしてぼくたちは今同じ時間を生きている」ということを、忘れないでいられるからかもしれない。

さっき撮ったばかりの、クチナシの写真を送る。
それぞれの思いを重ねながら、このクチナシのようになりたいね、と言い合う。

苦しみのうちにも共にいて、手を取り合って喜びを見出すことができる相手に、いったいどれくらい出会うことができるだろうか?きっとこの時代にはナンセンスなのかもしれない。私にも、かなしみがある。抜けない棘がある。喪ったままぽっかり空いた胸の穴がそのままになっていることも、幾重に瘡蓋となって棘のままねむっていることも。

だから夜に歩くし、迷うし、泣く。

わすれないでおくれ。貴方のために涙する人間がここにいる。

長い「おやすみなさい」を終えてもまだ、さっきのクチナシの香りと、耳元に流れる音楽が絡み合って、たまらない。

ああ、生きている。

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