まあ、正しさというのもほとんどの場合は主観にすぎないけども
「それだ!」と思える時のあの感じの根っこにある「腹落ち感」は「正しさ」に基づくものではないらしい、ということがわかってきた。
「既に自分の中にある、自分のものさし」の範囲外にいってしまうと
それがたとえ、より正確で精密になっていた場合でも「共感」には至らない。
共感という感触がなければ、ひとは「それだ!」と思えない。らしい。
作詞をしていても人と話していても、しばしば感じること。
私は共感性が低いのかと思っていたのだけど、どうやらそうではなく、
共感しているし共感できているのだけど、共感しているという感触が伝わりにくい、ということらしい。
「わかりづらい」といわれるものが好きだったが、べつに「わかりづらい」ものだから好きだったわけではない。
誰かにとって不自然なものが、自分にとってはとてもとても自然だっただけのこと。逆もまた然り。
感情における解像度が違うというだけのことだと思う。
同じもの(感情)を指すことはわかっていてそこに共感することはできても、それを表現するものさしが違う。
音楽もそうだけど。難しいねって二言目には言われるし、それが「伝わりづらさ」の一因であることは疑いようもない。
…そういうものを愛した結果今に至るわけだから、それを大事にしよう、という話。
空が少しずつ彩度を増してくる。春
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[…] 人は「正確なこと」ではなく「既に自分の中にあること」を言語化してもらいたがる […]