楽しいこと、楽なことを自分に許可する。

思うこと
今日は千葉へ。
結婚したばかりのお友達を囲んで、万年筆プチオフ@古民家カフェ「ゆずカフェ」
昨日今日と早起き()が続いたので、ややテンション低めのスタートでしたが、
そんな中でもちゃんと忘れず「気分はどう?」と自分に問うことができて、電車に乗る頃にはご機嫌。眠いけど。 そういえば、これまではそんな「友達と会う」という予定さえ「タスク」だった。
楽しみではあるのだけど、ウキウキワクワクよりも準備や移動やそのあとの体力の不安のほうが大きかったと思う。

目次

  1. 自分に許可する
  2. イチゴショートのイチゴは先に食べる
  3. やらなきゃいけないこと、は一生続く
  4. 私たちは楽しむために生まれてきた

自分に許可する

楽しいこと、嬉しいこと、ラクなこと、したいこと、そのまま自分に許可するだけで、同じ事象でも全く見え方が違う。 同じ言葉を言われても、そのときの気持ちがどちらに傾いているかや無意識のバイアスによって、全く逆の聞こえ方をすることがあるように。 余計な心配しなくていいよ、身一つで行けばいいよ、楽しんでいいよと許可すると、出掛ける億劫さよりも断然、楽しみな気持ちが大きくなるのを感じることができた。
私の出不精の原因は「内向型だから」だと思っていたけど、実はそういう見えないプレッシャーを感じていたからかもしれない。 いつもどれだけ「楽しんではいけない」ということを自分に課していて、それをあたりまえと思っていたかに気づく。

イチゴショートのイチゴは先に食べる

私は、典型的な「イチゴショートのイチゴはあとにとっておく」タイプだった。
楽しみはあとに、苦しいことは先に。やりたい気持ちよりも、義務を先に果たす。 ずっとそうやってきたのだけど、ある時気づいた。
楽しいことを先送りにしているうちに、苦しいことだけで終わってしまうこと。
義務を終わらす頃には、「やりたい!」と思った気持ちはピークをずっと過ぎている。イチゴショートのイチゴを取っておいたら、イチゴにたどり着く頃には「もうその気分じゃない」となっていること。 行動はきっと、気持ちのピークに合わさるのがいい。 私はいつしか、気持ちを抑えてしまう癖がついてしまっていたと思う。
楽しいことを一番楽しめるときにやることに対する罪悪感にも似たものがあった。
どこかで、楽しむことは怠惰で悪いことなんじゃないか、と感じていたのだ。 めちゃくちゃもったいないことをしていたな、と思う。

やらなきゃいけないこと、は一生続く

生きることが何となく息苦しい……と日常的に感じていたのは、
自分に「楽しむ心」が居座ることを許さず、
「義務を先に」と置き換えて、ストイックな、あるいは自罰的なほうを選ぶ習慣が見に染みついていたから。 だって、「やらなきゃいけないこと」は一生続く。
日々タスクも積まれていくし成長を求められるしお金も払わなきゃならない。 義務を全部片付けてから、と考えていたら、100%の開放感でひとつの心配事もなく何かを楽しめる日は来ないことになる。
よしんば来たとしても、心の「楽しむ筋肉」みたいなものがガチガチに凝り固まって、動かし方もわからなくなっているんじゃないか。
いや、実際、そうなりつつある……!

私たちは楽しむために生まれてきた

幸せを感じるために、喜ぶために、心から楽しむために、私たちは生きているはずで、
苦しいことや義務や高い目標に向かって努力することは、全部そこにつながっているはず。 決して、苦しみを耐えるだけのために楽しみというご褒美があるわけではない。 何かの分野で自分より優れた人にザワザワして、自分が望んでいることでもないのに努力を強いたり、
自分の漠然と考える「人並み」「普通」にならなくちゃと、本当は必要のない義務を自分に課しても、それは幸せにつながっているかどうかわからない。
マインドを変えない限りきっと、また次の「ダメポイント」を見つけて同じことを繰り返してしまう気がする。 幸せでなければ自己肯定感も生まれようがない、と気がついたから、
楽しむということを思い切り許可してあげようと、そう決めた。

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