好きなことを、しよう。アホくらい

思うこと

自分自身の体感と、自分の周囲のひとの動向と、世の中の空気感と拙い私の経験則が、突然針のような形になって自分の自分の心の真ん中をすっと刺してくるとき、行き着く感覚がもう、これでしかない。

自分が思っているよりもずっと精神は自由であるはずで、そして摂理や原則は社会よりも精密で、特化しても制御しても最後にはあるべきところに回帰していくに違いないのだから、好きなことを好きなだけする、という見かけの無秩序が産む秩序ほど堅牢なものはないのではないだろうか。

人の前に立ちはだかるのは見えない枷という強力な、でも実は見たまんま、実体のないもので、それを断ち切ることが出来るのは文字通り自由であろうとする精神でしかない。

もちろん、太刀打ち出来ない現実もたくさんあり、人の手を借りなければ乗り越えられないもの、回り道をしなければ登れない山もある。人の手を借りて道を探して、それを選びとるのは自分の精神だということ。

たくさんの「困るかもしれない」ことのために満遍なくやれることを求められてしまうように、今の社会は出来ている。
アイデアばかりがあっても論理だてて説明出来なきゃとか、とにかく総合力がないと突出してても意味が無い、みたいな求められ方をしたり。
一方で、総合力があったらあったで「でも突出したものはないよね」と落ち込まされたり、いいように使われる構図があったり。

この現象はなんなのだろう。

クリエイターにもプロデューサーにもなれる一部のスーパーマンがもてはやされて、そのために「あれもこれも、がんばれ、身につけろ(じゃないと幸せになれない)」というのが、教育体制の基盤の中にあるような気がするのだ。

だけど最近、私はちょっと懐疑的だ。それ、本当に全部みんなにとって必要で、大人になってからも自分に課さないといけないこと?

自分はそういうところからは「脱落」したからお気楽なものだ、と思ってきたけど、実際「脱落」という言葉を使っているあたり穏やかじゃないし、自分の思考の端々に、「最低でも平均的でなければ」「普通でなければ」という引け目があることは感じている。

でも、最低でも平均的でなければ、っておかしいんですよ。平均って真ん中なんだよ、ふつうにいけば半分は脱落する基準なんよ。相対評価の多くはそういうふうにできてる。

どうする? 何かを肯定することで何かを否定する価値観の中に自分を縛り付けておく?

好きなことを好きなだけする、そのために嫌いなことにも立ち向かうマインドセット。話はそれからだ。

実際、その人生を生きるための筋力はそれで必要十分なのではないか。我慢筋はいらない。歌をやるために腹筋運動200回、くらい意味がない。歌に必要な筋肉はその隣にあるやつだし、見せるために鍛えても邪魔になるだけ(って、歌のセンセが言ってた)。

好きなことを思い切りやって、同じように誰かの好きなことも尊重して、興味を持ち合って面白がり合えたら、いろんなことがもうちょっと息苦しくなくなっていくんじゃないか。そういう実験をしています。

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