困り感を抱いたまま、誰かを勇気づけたい

思うこと

こんばんは、haLunaです。

※haLunaはプロ作詞家をしながら、歌で身を立てていこうと頑張っている人です。

気がつけばライブまで一週間を切った。ちょうど締切weekと重なっていることもあり、バタバタとしているものの、1月以来のライブとなるので楽しみでもある。

ライブも作曲も、していないといろいろ鈍る。筋力みたいなものが落ちる。
スムーズに作れるようになるには、最初はやっぱりトレーニングがいるし、筋力みたいなものをつける必要がある。

心が、頭で「よし、わかったぞ」となったその日からいきなり変われることばかりではないように、

音楽もステージもそこに身を置き続けていることが大事で、ブログを書くこともきっとそうで。

流れを止めないこと、数日おきでなく毎日続けていることがとても大事なんだな……と思う今日この頃。

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困り感といっしょに

「勇気づけたい」というキーワード

このところ、自分自身について考える機会が増えた。いや、以前から自分について考えるのは大好きだったわけだけど、最近は人を巻き込んでそれをやるという時間を持つことができている。

自分の考えを壁打ち的に聞いてもらったり、一緒に考えてもらったり、また誰かのことについて一緒に考えたり、という時間だ。

そのなかで、「勇気づけたい」というキーワードが出てくるようになった。

人を助けるにはまず自分を助けなければ、と思っていた

これまで私は、人を勇気づけたり、助けたりするにはまず自分が自分を助けることができていなければ、と思っていた。

それは、自分が相談したり頼ったりする立場の時に、相手に自分語りをされて「嫌だな」と思った経験をしたり、

感情移入しすぎることは「寄り添う」のとは違う結果を生んでしまうのを見たり、といったことから得た感触でもある。

それと同時に、自分が自分を助けられていないと、助ける前に呑まれて共倒れしてしまう、という予測も。

だけど、よくよく考えて思ったことは、
何回春が来ても、私の困り感がなくなることはきっとないのだろうし、欠けたものを別の何かで埋めても「元々持っている人」と同じになることはきっとない
ということ。

そして、それはなにも私に限ったことではない。
それぞれが、どこかで受けてきてしまった傷や欠けをそれぞれの形で持ったまま生きているという点では、誰もがそうなのだろうと思う。
私たちは、欠けたものを欠けたままにして自分を形作っていくしかない。

夜回り先生

こういうことを考えたのは、今日久しぶりに漫画「夜回り先生」を読み返したからかもしれない。

土田世紀先生が描く「夜回り先生」。人の生き死にの境目に手を差し込むということは、喪って背負うという覚悟さえも必要だと思い出させてくれる作品でもある(土田世紀先生にはもっと生きて描き続けてほしかった……)。第1巻の第1話だけでも百読の価値ありなので、気になる方は是非。
Kindle版もあります。

とにかく、今これを読み返して、生徒さんではなく先生の立場で、いろいろと考えさせられている。
音楽でも、音楽以外でも、助けることができる強さと人としての不完全さは相反するものではないのかもしれない、と思う。
不完全だからこそ、相手のことを自分ごととして寄り添えることだってある。

夜回り先生のスタンスはある種の危険も大いに孕んでいるし、万人が真似られるものでも、正しい在り方と言い切れるものでもない(それもご本人はよくわかっておられるのではないだろうか)。
それでも、だからこそ伝わるもの、助けられる命があるのだろう、と思う。

メソッドはあっても正解はないから、ひととひとって難しい。

ここでちょっと、わたしの音楽の話

私が勇気づけたい相手

冒頭にも書いた通り、私はプロの作詞家としても活動させていただいている。

私が作詞の仕事をする時、いつしか気づけば勇気づけたい相手はエンドユーザ(お客さん)よりも誰よりも、これを歌うであろうアーティストやアイドルさんになっていたように思う。

もちろんお客さんにも伝えたいけど、その前に、歌う人がこの詞を読み込んで勇気づけられてくれればいい、そこから聴き手にも伝わるものだと思うから、と考えて作っていた。

いつか、その想いで作った歌詞で、本当に最後の最後で競り負けてコンペに通らなかったものがあった。

担当者から「内容でよかった部分にマーカーしておきました」といって返ってきた原稿はほぼ9割以上が黄色で埋め尽くされていて、そのことは、むしろ私の勇気になっている。

元来、内向的な私だけど、そういうふうに人に向いている時にこそ音楽を作れたと感じるし、伝えることには大きなモチベーションを持っていると思う。
そこに、これからの方向性のヒントがあるような、ないような。

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「欠け」が埋まることのない自分、を受け入れていこう


音楽ってそもそも、その存在意義からして「伝達」の要素が不可欠なもので、

人と人の間に存在してはじめて「音楽」になることができるものだから、音楽のことを考える時に人とのことを抜きにすることはできない、といつも思う。

人と関わる、誰かの助けになるということを考えた時、上にも書いた、欠けたものが欠けなかった人と同じ形に埋まる日が来ることはないという事実を、自分自身がどう引き受けていくのか。
ありふれた言葉にしてしまえば「そのままの自分で、できることをやればいい」となるのだろうけど、それはちょっと安いと思う。のは、まだ私の中で実感がこもってないからだろうな。

でも、人を動かすことができるとしたら理論ではなく心なんだと思う。

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