giveできる才能、与える・役立つ・求められる才能について考えてみた
こんばんは、haLunaです。
今日はお題blog。
毎週月曜日放送、F太さんとjMatsuzakiさんのひらめきラジオから出されたお題について書きます。 今週のお題は
です。
そもそも、giveできることって自分にあったっけ?
give upならいざ知らず。giveなんて大それたことを言えるようなことは何も持っていないような……。
実際、このお題でそんなふうに書き始める人もちらほらいて、それを見ると「なんで! あるやん! あれもこれも!」と言いたくなってしまうくせに、やっぱり自分も同じことを言ってしまう。
で、同じこと言ってるじゃんとつっこまれても、きっと「いやいやいや、私のはガチですから! ないから!」と、やはり他の人も感じているであろうところを例外なく口走ってしまう自分がいる。
これは日本人気質なのか? それとも人間の習性なのか? とにかく、自分のことを過小評価してしまうという傾向は誰しも持っているように見える。
自分のことは過小評価しがち?
過小評価というより、あらが見えやすい、手の内が見えてしまっている、当たり前すぎて役に立つと思えない……といったほうが近いかもしれない。
あらが見えやすいと、これを人に「give」と明示して出してしまっていいのだろうか、という考えに至りやすい。現象的には完璧主義的になると言えるが体感的には完璧とは程遠い。
この、程遠い、というところがキモなのかもしれなくて、いくら言葉で「完璧じゃなくても、どんどん出していくことが大事なんだよ」と言われてもなかなか動けない人のなかには
「そうは言っても私のは『ちょっと足りない』というレベルじゃないし……」
「少なからず、人より得意なことじゃないとですよね……?」
という感覚をもっている人がすくなくないのではないかと思う。
人の自信のなさには根拠がない
そもそも、色々手を出して自信をつけるために自分以外のモノサシを入れてみたり、という経験も何度かしてみて感じることは、自信のなさには根拠がないということだ。(よく考えたら、自信のあることにだって根拠なんてないことが多い。)
いくら人に褒められても、文章を書くのにゼミを受講してみたりしても、では「人を楽しませる文章が書けます!」と言い切るのはとても難しい。
そこは、確たる根拠を与えることが難しい部分だからだ。
主観的な評価軸のものになればなるほど、この傾向は強い
例えば、TOEICで〇点取る事が出来ます、とは言えても、英語でコミュニケーションが取れます、あるいは英語を教えることができます、という話になると一段ハードルが上がる。
コミュニケーションの上手さも教えることの上手さも、相手のあることで、なおかつ主観的な評価が入ってくるものだ。
また、いくら喜んでもらった実績があるとしても、その実績自体が自分の思い込みでないという保証はない。
聞き上手なつもりでいて、実は相手が「そうだね、ありがとう」と返すしかない会話の展開を自分がしてしまっていないとも限らない。あるいは、聞くのが上手なのではなく、たまたま似たタイプの相手だから「わかる」と言いあえただけで、自分の特技ではないこともある。
本当に人を喜ばせてきたか、他の相手にも適用できるかを客観的に判断することは難しい。
そして、「人にgiveできること」というテーマは相手ありきで、自分・相手それぞれの主観と切り離すのが難しいことが多い。
自分という人間が人にgiveできること……というテーマに尻込みしてしまうのは、そういう背景もありそうだ。
人はきっと、求められるほうが動ける
そんなふうに、漠然と「あなたがgiveできるもの」と問われると難しいこの問題だが、実際のケースに直面していくほうがすんなりと見つけられる、ということは多々ある。
明確なニーズありきだから
ひとつは、明確なニーズが目の前にあるということ。
「私は〇〇ができます」と自分から発するためには、それなりにいろんな場合を想定して、それに照らして「できる」と言い切れるのかという判断を自分がしなければならない、というハードルがある。
「私は〇〇ができます」の前には、()つきの「ある程度いつでも、どんな相手のどんな状況にも」という前提条件が隠れている。
(たとえば資格があって明確に「できます」と言えることというのは、ある分野を体系的に学ぶことで、その前提を一定水準で満たすことができるから、ともいえる)
一方で、人に求められている状況でそれを発揮することにおいては、少なくとも「今ここにある問題に対してなら、力になれます」と言えれば十分であることも多い。
環境が限定的だから
もうひとつは、「今ここにいるメンバーの中では、少なくとも私が一番動けそうだ」という判断基準が適用できること。
何かを「得意」というからには、客観的な位置づけを把握する必要がでてきてしまうもの。
しかし、その場で求められていることに対しては、世の中の平均を把握して、それに対する自分の位置づけを吟味する必要がない。
なにもないところに看板を出すことはそれだけ難しい
なにもないところに「giveできます」と表明するためには、そのスキルがある種の絶対評価である必要がある。
その意味では、実績を作ることとそれを明言することの間にも、また隔たりがあるともいえる。
もしかしたら誰にでもできる「give」
絶対評価、客観的視点、これらを自分自身だけで適正に見つけることは難しい。
一方で冒頭にも書いたように、人のことなら(ある意味手放しで、無責任に、でも確信を持って)「そんなことないよ!」と言えるし「あなたのここがすごい!」と言える。少なくとも、自分のことを言うよりは簡単に。
なら、もしかしたら誰にでもできるgiveのひとつは「そんなことないよ」を言い続けることであり、「あなたのここが必要です」と頼みつづけること、と言えるのではないだろうか?
また、私は以前に書いたように「人に頼るのが苦手」でもあるのだけど


苦手だと思っていたそれが、そのままgiveになっていくということでもある。
win-winでgive&giveなら、こんなに素敵なことはないのではないか。
ところで、もうちょっと自発的なgiveはないんですか
これだけではどちらかというと「あなたのgiveの見つけ方」というデジャブ感のあるテーマっぽく終わってしまいそうなので、一応、いくつか出してみます。
- こういう感じの文章を書くことはお手伝いできます
- 確たる思いや考えはあるのに上手く言葉に変換できない、というときのお手伝いはできます
- 耳コピします。楽器がなくてもやれます。早いです
- コード譜書きます。ややこしいテンションやオンコードも取れます。大学で音楽理論を学んでいるので、整理して書きます。音の意味について解説もします
- 歌を歌います
- ピアノ弾きます
- パン、ケーキに詳しいです。実務離れて久しいですが元ブランジェパティシエ、ガチで修行しました
- 校正校閲します。紛らわしい言葉遣いを使い分けたり、言い回しを考えたりするの得意です
- ライターやってます。情報をインプットして組み直してアウトプットすることができます。つまりコピーになるのを避けつつキーワードを盛り込むSEO対策のお手伝いができます
- ヘアケアにそこそこ詳しいです。基本的なことは答えられます。美容師の娘で、しかもシャンプーオタクなのです
- 万年筆の基礎的な知識があり、オススメをご紹介できます。万年筆オタクなのです
- 服の流行りはわかりませんが文房具のトレンドならまあまあ詳しいです
- HSPについて話せます、HSPの感覚についてある程度通訳できます(上の方の「言葉に変換」との合わせ技)
- 聖書について少しばかり解説できます(クリスチャンです)
- カトリックのようす、実情などについてお話出来ます
- クリスマスですしミサに行ってみたい方はお気軽にご相談ください。信者さんじゃなくても参加できますよ←
以上、小さなgiveをたくさん、でした。
まとめ
今回のお題は「オンライン上で自分がgiveできること」でした。
実際に書いてみると、案外「オンライン上」というところに触れていないというか、とくに意識していないことに気がついて、昨今はそれだけオンラインとオフラインの境目なくできることが増えているのかもしれないな、とも感じました。
giveってそれ自体、つながりだし関わりなんだな。人と関わって心地好い時間を共有している時、きっと何らかのgiveをしているし、それ自体がtakeにもなっている。(何かをあげる代わりにもらう、ではなく、あげること自体がもらうこと)
書いたからには、今日明日からそのように行動していけるといいなあ。
ではでは。
コメント
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