朝に水鳥、陽のもとに生きるものたちは

日常と非日常のはざま

ようやっと朝に活動をするようになって、約一週間が過ぎた。
なるほど、朝から密室に篭って少し作業するだけでも、起きて準備してすぐに出かけるのとは気分が違う。爽快というのでもない。どちらかというと落ち着いている。
朝の感じられない部屋で作業をするだけでも、「始まった一日」に対して地に足がつくのかもしれない。
むしろ、朝を感じさせない部屋がいいインターバルになるのだろうか。起き抜けに朝日の入る部屋で作業をすることを考えると、焦がされてしまいそうで少し気が滅入る。

なぜ朝が苦手だったのだろう?
むしろ徹夜明けの朝散歩が好きだった。ひとの朝とは違う朝。夜のつづきの朝。
今は、朝に起きて電車に乗って、その光をまぶしくうれしく思う。
朝の住人ではない、という思いがそうさせていたのか。

朝は闇だった。まぶしければまぶしいほど、影を色濃くする。だから好んで夜に生きた。
そういう生きものもいる。

人の棲む街の間を流れる川に、素知らぬ顔で浮かぶ水鳥。水面にたわみをつけながらすいと泳いでいる。

 

羽をひろげて空をすべる鳥が、私の視界をよぎっていく。

 

鳥は飛べるほどに完璧なフォルムをしているのに、人はなぜ生きているだけであちこちを歪め、傷めているのだろう。
自然に生まれ自然に生きる者たちはまっすぐだ。魚は鳥を恐れはしても憧れることがあるだろうか。鳥は魚のように泳ぎたいと悶え病むことがあるだろうか。
人は憧れ、そして飛ぶことも潜ることも覚えた。ゆえに悶え、妬み、苛み、ときに他者を害する。知恵の実と、原罪。それでも人は知恵を選びその知恵を愛した。
知恵を識(し)り知恵を愛したことこそ、ひとの美しい罪なのだ。

神に似せて造られたという人間は、きっとすべての生きもののうちでもっとも不完全だ。‪
不完全だからこそ、悩み、補い、群れを越えたつながりを求め、見えないものを想像し、まだ見ぬものを創造する。
それは業であると同時に、わたしたちが人として生まれた意味でもあるのだ。
そんなことを思う。

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