似て非なるひと〜月曜日blog

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非常に貴重な出会いをしている。

自分とよく似た気質の人が、自分よりちょっとだけ「先」を行っている。「先」というのは一般的などの尺度のことでもない。私が「きっとこうだったらもっと楽だろうな」「もっとうまくいくんだろうな」とぼんやり考えているようなこと、だ。
私が乗りこなしたいと考えている自分自身に対していつも挫折する、その難所をクリアして次のステージにいる人だ。

私は、人を頼るのが苦手だ。
頼るのが苦手というのは、つまり、開くのが苦手なのだ。
外に対して開く。誰かに対して開く。自分を開く。そういうことが。

仲のいい友人はいる。心を許せる友人。大切に思う人。
だけど、相手によらずそれは「閉じて」いるのがデフォルトで、門扉は一見開いていても、そのだいぶ内側に本体がいる。
そして、人を招き入れるためだけの部屋があり、実際の自分の部屋は裏に入り口があって人にはわからないようになっている。その入り口から階段をおりると、そこは「不思議のダンジョン」みたいに入るたび配置が変わっていて、自分自身でもまだまだ探索する部屋がある。
これはお友達の言った説だけれど、とてもしっくりくる。
だから私はまだまだ自分を知りたいし、自分の中をひとりで探索するのが好きだし、困りごとの答えをその部屋の中から探し出そうとする「癖」——これはもう「習性」とか「本能」といっても間違いではないかもしれない、そういうものが具わっている。

……自分に対して肯定的なときにこのテーマで書くと、「これでいいじゃん」という結論でシメてしまいそうでいけない。(肯定的なのはけっこうだが)

自分でなんでも解決していってしまう反面、自己流の罠にも陥りやすいというわけだ。

私はもちろん、こういう自分の癖が嫌いではないし、一生遊べる部屋が自分の中にあるなんて楽しくて仕方がない。そこに他者を引き入れたいという気持ちもない。……音楽以外では。

むしろ、音楽は私にとって、この「刻一刻と変化する自分の部屋」を誰かに一方的に見せたいがために選んだものかもしれない。
それは、私にとっては絵や文学では表しきれないものだった。音楽のかたちをしていた。そういうこと。

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貴重な出会いの話だった。
こういう気質でずっと過ごしてきて、自分と相容れない人よりも似た性質の人とすごすことを選び続けて、幸いなことに仕事もプライベートもそのような環境を得ることができた私にとっては、使わない能力は退化の一途。そのことにも気づかないくらい忘れ去られていたタイプの「人との関わり方」だけど、それを避けてきたがゆえにいつも同じ壁にぶつかったり、伸び悩んだりする。
すごく平たくいえば「引っ込み思案」、でも引っ込み思案にもきっといろんなタイプがあって、さしずめ私のは「偏屈」の引っ込み思案。
隠すまでもなく、プライドも縄張り意識も高い。群れられない動物。
「そういう人間だもの。はるを」といって済ませてきた私の前に現れた、同じような気質の、もっと柔軟な人々。
その懐の深さ、柔らかさ、オープンさ、人への尊重があふれる感じは、「なんちゃってジェントル」「にっこり冷ややか」な自分にクリーンヒットした。
なんとも上手に、自分の領分もしっかり守りながら人の力を借りることよ。

私はどうなりたいんだろうなあ、と、時々考える。
アーティストだから孤独でいいのだ、そう思うこともある。孤独が内面を充実させることも事実あるし、むしろ原動力のようなところはある。
それでも、人はひとりでは生きていけないことも知っていて、頼ることがまったく悪くないということは頼られる経験からよくよく知っていて、それなのに自分のこととなるとできない、これはやっぱり、どこかいびつでアンバランスな状態なのではないだろうか、と思う。
全てを真似るわけではもちろんないけれど、こう、ごく身近にものすごいお手本というか先駆者というか、そういう存在ができたことはすごく、そう、貴重だなと、そう思うわけです。

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