死の国のテキスタイル

日常と非日常のはざま

何回でも目が覚める。

はっとする。気づく。

なぜなら、人は何回目を覚ましてもまた眠ってしまうから。

気づき続けるには工夫がいる。たぶん、仕組みがいる。
そんな無機質な話にすぎない。やる気や熱情などというロマンチシズムとはまた別の次元の。

だが、人はどうにも有機的にならざるを得ない。

いま、私たちはすごい時代にきていると思う。
リアルに会っていなくてもリアルタイムにつながって、まるでそこにいるかのように一緒に過ごせる。

変な妄想いうよ。なんだか、死の国のスタイルに近づいているよね。
境目、なくなってきているよね。

チャットのやり取りを見返せば、そのときと同じように再生されるし、まるで生きてやり取りをした昨日を振り返っていたのとさほど変わらないのだ。

私は、ずっと前(ネット社会がメインストリームになるより前)からずっと感じていることがあって、

死とは何かというと、それは主体が消えて客体だけになることなのだと。
ひとの間に私は残るけれど、私だけが知る私の視る世界はこの世から消え去る。すべて。
辛うじて、文字や音や絵的なものでその片鱗が残るだけ。それは気配のようなものかもしれない。残像のようなものかもしれない。
主体はそこにはない。

そのような条件下で、生きるということに何を見出せばいいのだろう。そんなことを、まさに小中学生くらいの頃に考えていたわけだが、
不良信者を自称するだけあって、カトリック信徒となった今も、宗教はその答えをくれない。
「それではない」と、私の中の人がいう。

信ずるものは結局、私の「納得感」の中にしかないのであって、もっと歳を取ればそれは訪れるのかもしれないけど、迷うのもまた道なりの道のり。

そのとき、彼(か)の国はどんなテキスタイルを描き出すのだろう?

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