自分の信条となることを書きます。
この日のブログで「書きます」と言っていた4つの項目。
1つ目が思いのほか長かったのと、2が突然宗教めいたっていうかバッチリ宗教が絡む話になってしまうので、日を改めることにした。
※筆者、カトリックのクリスチャンです。
私の、生涯を通しての信条(現時点)
「生涯(現時点)」て! というツッコミ待ったなしではあるが、あくまで射程は「生涯」でありつつも、状況が変わればそれが信条とするまでもないことになって、もっと広く深い在りようを求める時が来るかもしれない。
その意味で、これはいわば今見えている景色の一番遠いところ、とも言えるかもしれない。
ミッション・ステートメントよりもシンプルにした理由
これから書くのは、いわゆる「ミッション・ステートメント」というようなものの縮小版みたいなものだ。
それはまぁ、ミッション・ステートメントというものがどうにも、なぜか、性に合わないと感じたからなのだけど、しかしながら、自分が生きる上で大切にしたいことは書いておきたいと考えた。
どちらかというと、クレド(信条)に近いだろうか。
※あ、ここではクリスチャンが言うところのCredoを指すのではなく、よく手帳術で紹介されているほうの意味のアレです。ググると出てくると思う。
その「信条」は私にとって、歌であれ、それ以外のことであれ、必ず自分の行動指針になるもので、それなしに「行動」だけを充実させて結果を出したとしても「幸せ」にはつながらないかもしれないものだ。
人生にはテーマがある
人生にはテーマがある、と思っている。
これは確信ではないし根拠もない。ただ、ひしひしとそう感じる、としか言えない。
その人が人生を後悔しないかどうかは、実はたった一つのテーマに収束するのではないか。
……逆に言えば、人はやっぱり、死ぬときに後悔したくない。「これでよかったのだ」と思って死にたい。
全ての方面で、その環境が作れる人ばかりではない。
生きていれば後悔もあるし、取り戻せない想いも、誤ったと思いつづけるしかない選択もある。
それでも、もしかしたらたった一つの出来事や、誰かの優しさや、あるいは自分自身の気持ちの持ちようが変わっただけで、最後に「よかった」と言えるとしたら、そこに存在するものはなんだろうか。
必ずしも、実際の人生の目的がそこにあるとは思わない。
にもかかわらず、なにかがそう言わせるのだとしたら、それは「いい人生だったと思って逝きたいという気持ち」ではないだろうか。
たった一つでも、その瞬間に自分の人生を肯定できるなにかがあったなら、そこに(言葉は悪いけれど)縋り付いてでも、そう思って死にたいものなんじゃないかと思う。
死という未知と恐怖をその瞬間に受け入れるには、それしか方法がないような気さえする。
私は今を楽しみたい。けれどそれと同時に、死ぬときに後悔もしたくない。
であれば、後悔しないためのたった一つの拠り所となるべきものを、自分自身の内側に作っておきたい。
そう考えたとき、たどり着くテーマがある。
私の人生の信条、人生を通してのテーマみたいなもの。
それは、
「誇りを持って生き、その『誇り』に適った生き方をする。そうして自分を心の底から肯定して生きて、そして死にたい」
であり、
「同じく、自分の隣にいる人の中にもその『誇り』があるのだと知り、それが損なわれるようなことがあればたすけたい」
ということだ。
自分を誇るように、自分の隣の誰かの誇りを尊び、
一人を助く、援く、佑くこと。
私の「誇りに適った生き方」には、人とどう接するか、どう人を助けるか、役に立つかということも含まれている。
(ここから一瞬、宗教のお話だよ)
↓↓
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
-イザヤ書 43・4
まさに、この聖句のようなことを、自分に伝え、周囲の人に伝えられる人でありたい。というのが今の私の望みなのかなと。そう思っています。
……また、長くなったね!?
つづく
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