時間軸という騙し絵図

日常と非日常のはざま

ときどき狂う私の時間軸。

日々って似ているし、季節って似ているし、年月ってやっぱり似た感じで似て非なる巡りを繰り返すもので、暦であったり、記念日であったり、気候であったり、そういうものが呼び起こすものは、長く生きれば生きるほど蓄積されていく。

わけもなくさみしい気持ちが起きたりするのは、認識のバグと理性の是正がせめぎ合って起こる感情の誤作動なのかもしれないな。

今この瞬間も、きっとそういう「しめつけられるような」思い出になっていく。

2018年11月1日にいながら、私は2016年11月1日にいて、同時に2008年の秋にもいた。2010年の初冬にも。そのすべてはよく似た空気の匂いで繋がっている。

空恐ろしい気持ちがよぎるのはきっと、その頃の「今」に、2018年の今あるつながりがまだ存在しなかったり、全く違う場で生きていたりすることが、ものすごく心もとないような感覚になるからなのかもしれない。
個々に存在しているのに、私たちはまだお互いを知らなくて、全く違う場所で「せえしゅん」を過ごしている。
私たちはお互いのその時代を、追っかけでしか知ることができない。

話を聞けばワクワクするし、追体験的な感覚だって持てる。その頃にしていたような旅行をまた企画して、今度は私も連れて行ってよ、と言うこともできるし、言えば「行こうよ」と言ってくれるだろう。
でも、互いを知らない、今よりずっと未熟で隙だらけだった時代を共有できるわけではないし、まだ無数にある未来の夢物語を無邪気に語り合うことができるわけでもないし、それに、その仲間のうちの一人はもうこの世にいない。
私達はいつも、二度と手に入らないものに恋焦がれる。

「時」を俯瞰してしまうと、知り得ない過去を求める自分を、さらに未来の自分の視点が「もう失ってしまったみたいに」追い求めているのを感じる。
今日という瞬間が明日には過去になることを知っているからだ。
そうして、エッシャーの騙し絵みたいに、終わらない追いかけっこをしている。
……そういう輪の真ん中に歌はあるのだろうなと、ぼんやりと、そんなことを考えている。

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