身を助けたのは結局「集中」だった

思うこと

「らしからぬ」ゲームにハマって成長を感じた話

私にとって天敵のようなゲームがあるわけです。

こう見えても、それなりにゲームは好きな方で、とにかくファンタジーっぽい世界観のものはRPGを中心にいろいろやったし、シミュレーションゲームもサウンドノベルも脱出ゲームもやればそこそこハマるタイプでした。

そんな私が唯一やらない……周囲がさせない……ゲーム。それが「アクションゲーム」

そりゃ、ちょっとくらいはやりましたよ?
「風のクロノア」とか。
でもあれも結局ラスボスまでいかなかった気がする。
途中でクリアできない箇所が必ずあって、友達(主に男子)はすいすいクリアしていくし、どうやってるのかてんでわからないし、私にはできるわけがないという感触しかなくて、それよりスカッとするようなプレイを横で見ている方が楽しくなってしまったので、すっかり見る専門さんに。
今やゲームはほとんどしない民族になっていました。

 

数年ぶりにハマったゲーム、「Grimvalor」

 

そんな私が、何を血迷ったのか、最近始めたゲームがこれ。

Grimvalor

 

スマホのアクションゲームです。
どうしてまたそんな? と自分でも思うけれど、ツイッターで面白そうなレビューが流れてきて、つい魔が差した……というのが正しい。

 

やってみると、操作した感じはなかなか楽しくて、基本は左右に走るんだけども二段跳びや滑空、壁登りなんかができたりして、動き的にも気持ちがいい。
そして、隠し通路を見つけて地図と宝をコンプリートする楽しみもある。

……あまりにハマりすぎたおかげで、初台に行った時この階段を見て「二段飛びからの滑空、滑空でのぼりたーい、あのランプは踏んだらきっと経験値、意味ありげに積んである石のところにはきっと隠し通路が」と考えずにいられないくらいには、ゲーム脳です。

 

初台のここ、めちゃかっこいいよね。←

 

かつての私は凶暴なゲーマーだった

で、ですね。
なにしろ相手は、天敵であるアクションゲーム。いつ、「ふんがーー!」って言いながらスマホ投げつけることやら、などと思いながらプレイしていたわけです←このへんが「周囲がさせない」理由

 

……ハイ。かつての私といえば、思った通りの動きをしないとか、当たり判定に納得いかないとかあると、ゲームしながらとってもイライラしてしまうタイプ。
最後は「もうやだ!!!」といって不機嫌になるわけです(ひとりで)。
友達と一緒の時でも、本気ではないけど、ゲーム機叩きこわすそぶりをみせたりですね(やめなさい)(ああ若気の至り? 恥ずかしい)

 

そのうち、ゲーム系の友達の間では「こいつとアクションゲームは同じ空間に置いてはいかん」というのが暗黙のお約束になったわけです。どんだけ。

そして感じた、自分自身の成長

いざ久しぶりに手をつけてみても、やっぱり、苦手なのは相変わらずなんです。
不器用というか、思ったのと違うほうにいくとムキーとなるし。

 

しかしここで、思いがけない発見がありました。

 

序盤はなんとか切り抜けたものの、やはり「これは無理」「できない」という壁にぶち当たってしまうことに……。

私はこれまで、こういうところで諦めたことしかありません!
自慢じゃないが、諦めたこと「しか」ないんです!!

 

それなのに、どうしたことでしょう。
気がつくと自然に、「できない理由」を分析して、強化して、一歩一歩克服していっている自分がいる。

突破できないところでは、実際に何がどう引っかかっているのか、
身につけなければならない技術は何か、
妙な癖がついてしまって余計な動きをしているのはどの部分なのか、

クリアしたい箇所とは別のところにある、反復練習ができそうなところでひたすらその動きを繰り返したりと、真面目に「練習」したりなんかしている。

 

あれ? 私遊んでるんでなかったっけ。
なにこのコツコツした感じ。粛々と分析してやっちゃう感じ。

 

そう、これ、いつも歌練習でやっていることなんだよね。
それが、いつのまにか「ゲーム」でも発揮されるくらい、身についていたということ。
これには笑いました。
(逆に言うとだね、子どもの頃は練習に対しても忍耐が全くなかったということがここでバレる件)

 

気がつけば、ネット上でも「最大の難所」といわれたところをクリアして、強いアイテムを手に入れることができていました。やったね!

 

いつのまにか「コツコツタイプ」になっていた、その理由

ゲームと歌練習には、実は共通していることがあります。それは、

 

・昔は「できない」「わからない」と思っていたということ
・今は「できない」「わからない」を性急に判断する癖がなくなったこと

 

むしろ、今は逆で「できないわけがない」がデフォルトになっています。
なぜなら、ゲームは多くの人が楽しめるように人が計算して作られたもので、そこには「できることしか」ないはずだからです。
そして、歌も「人間に可能な技術しか使われていない」はず。
だから、できないって考えるだけ、無駄です。
無理なように見えても、分解すれば必ずやり方は見えるし、落ち着いてその手順を実行すれば誰でもできる。多くのことはそういうふうに出来ているのだから、出来ることはきっと自分が思うよりもずっと多い。

 

人は、心の底で「できない」と思っていることを頑張ることができません
今できなくても、明日以降いつかできるようになる、という希望があるからこそコツコツ続けられるんです。
今の「できない」ではなく、未来の「できる」にフォーカスしていることがとても大事。
できるようになると信じているからこそ、今の「できない」と向き合うことができるのだと思います。

「集中」ってすごい

なにかに打ち込んでいると、集中っていうものがだんだん身についてくるのですが、この集中ってのはとても使えるやつなんです。

集中って、一言でいうと自分の気分をコントロールすることではないでしょうか。

 

そして、この「集中」を訓練するうちに、一瞬で頭を切り替えることや気分を脇に置いておくことが日常生活でもできるようになってくる。
問題に直面した時にも、一呼吸おいて冷静に取り組む癖がつく。

 

子どもの頃は、私は「大人になってからは余計、ゲームの上達は見込めない」と思っていました(親や親戚が、この手のゲームはまったくお手上げだった姿を見ていたからです)。
それにゲームに限らず、周りの大人たちはことあるごとに「もう歳だからできない」「あんたたちは若いからいいけど」という。
もちろん、純粋な体力面だとか怪我からの回復だとか記憶力だとかなら、そういう部分もあるでしょう。
でもなんというか、今考えるとやっぱり、何でもかんでもそうだとはやっぱり思わない。し、そう思っていていいことがあまりない。と思う。

(これってある種呪いの言葉ですよ。
いずれお前もこうなるって言われているようなもんですから。
老いること、ひいては生きていくことに、どうやって希望が持てますかね? と、大げさでなく思う。)
「歳をとったらできない」だけではない。「この子は下手」「苦手」「向いてない」なんかもそうです。呪いです。そんなもんは二段跳びでけちょーんですよ。
やりたいうちはやればいいし、向いてなきゃ勝手に興味なくすからいいんです。

 

そんなことより、「集中して」今を存分に生きることのほうが結局、ずっと有意義だよね。

 

まとめ

久しぶりに苦手だったことに取り組んだら、思いのほか容易に攻略することができる自分がいた、というお話でした。
ゲームであれ勉強であれ練習であれ、そこから得られるものは今の自分を映すなにかだったりします。
10年前に読んだ本を今読んで、全く違う感じ方をする自分を発見するのにも似ている。
たまにはガラにもないこともやってみるものですね。

 

ひとつ歳をとるごとに「年齢なんてのは観念ですから」と飄々と言える人に近づいていきたいってのが、私のひそかな目標でもあります。
なんでも楽しみ面白がりましょー。ではでは。

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