江戸さんはこの日のために、周到に周到に準備を重ねてきた。
9月23日、万年筆の日大オフ会。
演奏のこと以外はほぼノータッチだった私と違い、会場となる乗附邸の下見をしたあとも、細かいタイムテーブルや名簿の作成、当日の持ち物確認、注意事項から、サプライズとなる品物の数々、当日のバス停から会場の送迎……そういったことを考えてくれたのは江戸さんと磯野さんであり、とりわけ、リーダーとして最も忙しく動いていたのが江戸さんであった。
その、磯野さんが、多聞くんに持ちかけてきたひとつのサプライズ。
それは、ステージの最後に、江戸さんの出身校の校歌を歌おう、というものだった。
江戸さんは岩手県の、陸前高田出身だ。
岩手県立高田高校校歌の演奏動画を教えてもらい、私たちはひっそりと準備した。
いざ、ステージの最後の曲になり、そしていよいよサプライズの瞬間。
念の為、会場に江戸さんの姿を確認すると……いない。なんと、人を迎えにいってしまっているという。
「どうします?」
戸惑った様子で、多聞くんが訊いてきた。
演奏会を〆てしまうと、きっと会場はまた騒がしくなってしまうだろう。そうなると、サプライズのタイミングをとるのは難しくなる気がした。
「……このまま待って、戻ったタイミングで始めよう」
そこで私たちは、そこにいる参加者50名の皆さんにサプライズのことを話し、江戸さんが戻ってくるのを一緒に待ってもらうことにしたのだった。
数分とたたずに、江戸さんが戻ってきた。
「戻ってきたよ!」
「江戸さん帰ってきた!」
小声のエクスクラメーションつきで、口々に教えてくれる参加者の皆さん(私たちの位置からは、出入口がちょうど死角になって見えないのだ)。
そわそわしながら待っている人、そっとカメラを回し始める人。皆に伝えていたことは、結果的に吉と出たらしい。
会場中の気持ちがひとつになっていた。
誰かが江戸さんを一番いいと思われる席に案内し、座らせてくれた。
着席するのを見計らい、いちばんいいと思われるタイミングで、イントロを鳴らしはじめる……。
―――
「やっぱり、ピアノ伴奏がいいよね」
スタジオに入る前の、何度目かの打ち合わせでそう提案したのは私だった。
送られてきた音源はブラスバンドの演奏だったが、普段はピアノ伴奏で歌うこともあったはずだ(きっとどこの学校でもそうだろう)。
なら、できるだけ「いつもの」雰囲気に近い方がいい。
「いいと思います!」
ギター担当の多聞くんも、快諾してくれた。
ピアノ伴奏譜はもちろん手元にはないし、音源は出だしの切れたものしかなく、しかもイベントの音源だったこともあって雑音や人の声が混じっていた。そのため、物理的に和音の聴き取れない箇所がほとんどだった。
それでも、日本の唱歌らしい、シンプルで美しいメロディラインだ。ハーモニーを想定して伴奏をつけるのは、さほど難しそうではなかった。
そういえば、私は学生時代に校歌の伴奏というものをしたことがない。一度くらいはやってみたかった。その夢が思いがけず、叶うことになるとは。
……ところが、以前に書いた通り、私はスタジオ練習直前に左手が動かせなくなるという事態になってしまった。
そのため一時は多聞くんに伴奏をお願いすることにしたのだが、直前でなんとか小指だけでも演奏ができそうな目処が立った。
そうして二転三転の末、やはりピアノだけでいきましょう、ということになったのだった。
最終決定はオフ会の、まさに前日のことであった。
高田高校の校歌は、実際に歌ってみるととても美しい日本語とメロディで、陸前高田の風景を情緒豊かに描いた歌であった。
「元々女子校だったから、やさしい歌詞なんだ」と、のちに江戸さんが教えてくれた。
そんなこともあってか、いつしか家で口ずさんだりするほど愛着が湧いてしまった。
思えば、自分の高校の校歌なんて、在学中は真面目に歌わない子の方が多かった気がする(少なくとも、私のまわりではそうだ)。
時を超えてはじめて沁みるのが、校歌というものなのかもしれない、とそのときはじめて思った。
きっと、母校も、ふるさとも。
―――
できるだけ、実際と近い雰囲気にすること。イントロでそれとわかる演奏を推理して、ミスしないこと。あとは、きれいに歌うこと。
人を喜ばせたいなら、外せないポイントがある。
イントロを演奏したとき、江戸さんがどんな表情をしているのか、私の位置からは見えなかった。
1番が終わるあたりで、不意に、自分のものではない歌声が頭上から聴こえた。いつのまにか江戸さんがピアノの隣に来て、まっすぐに立って校歌を歌っていたのだ。その江戸さんの声が聴こえた時、胸がいっぱいになって、私の歌が途切れてしまった。
岩手県立高田高校は2011年の東日本大震災で、校舎も被害を受け、生徒さんも数多く犠牲になっている。江戸さん自身も、ご友人やご家族が被災しており、そのこともあって地元の復興に力を入れていることは、その場の誰もが知っていることだった。
その江戸さんにとって、母校、母校の校歌というのは特別な思いがあるであろうことは想像に難くなかった。
江戸さんの歌が聞こえて来た時、その思いの強さが裏付けられたような気がして、不覚にも涙がこみあげて歌えなくなったのだ。(ぜったいに、当日泣かないようにと練習を重ねたのに!)
私の友人の何人が、自分の母校の校歌を覚えているだろうか?
私が高校を卒業してからの年月の、倍以上もの隔たりがあってなお、江戸さんは校歌を覚えていて、今も歌えるのだということに、その深い思いが見て取れるようだった。
演奏が終わって、江戸さんが簡単なスピーチをしてくださった。
今、陸前高田は人口が減っていて、子供の数も少ないこと。この高田高校もおそらく、そう遠くないうちに別の学校に合併されて、この校歌が歌われることはなくなっていくだろうということ。
まさかこんなサプライズがあるとは思わず、とても嬉しかったと。
その時は、幹事として皆の前に立っていることもあってか、口調は淡々としていた。
けれど、イベントがすべて終わって後片付けをしている時、江戸さんが話してくれた。
「今、この歌が歌えないんです。この校歌と、『ふるさと』という歌は。
ここで、聴かせて貰えると思わなかった。本当に嬉しい。ありがとう」
やはり、その目には涙が浮かんでいた。
歌えない歌。津波で変わってしまった風景、変わってしまった故郷……。胸が詰まる。
この曲だけはやり遂げなければ、と思っていた。大切な母校の歌。大切な故郷の歌。
江戸さんの涙を見たとき、
あぁ、今日、この曲を演奏するためにここにきた
と思った。腕の怪我で、やめなくてよかった。私はこのために今日ここにいたのだ。よかった。それだけでじゅうぶんに思われた。
このサプライズを考えた磯野さんがちょいと憎らしかった。年の功だと思いたい。私もあのくらいの年齢になればきっと、こんな粋なことを思いつくことができるにちがいない。悔しい。
磯野さんの方をちらりと見やると、いたずらっぽくこちらを見て笑っている。……ふん。
その日は、江戸さんといろんな話をすることができた。陸前高田のことだけではない。聞けば聞くほど私と気が合いそうな予感のする江戸さんの娘さんとのお話や、ご家族とのお話。
聞いているうちに、私は3年前に亡くなった自分の父のことを思い起こしていた。江戸さんと娘さんとのお話は、自分と父とのことに重なる感じがした。実際には、重なっているのは架空の思い出だ。もしもそばにいてくれたら、きっとそんなふうに接してくれていたのかもしれない、という確信に近い感触。まるで、自分の父親がそこにいて、話しているような気持ちでいられた。
「娘が可愛くて仕方なくてね」もう成人しているという娘さんのことを江戸さんがそう話すたび、どこからともなく、あたたかい気持ちが湧き上がるのを感じた。
それはとても不思議な感覚。父と離れて暮らした幼い私の寂しさが、ひとつずつ満たされて昇華していくような。
私の中に何度も、「ありがとう」がよぎる。この人が娘さんのためにしたことが、時を超えて私の一部を救ってくれている。そんな気がしたので。
誰かとの出会いは、どこかの別れと繋がっている。
そうやって、私たちは未来を繋いでいく。
もしそうならば、今日の日の出会いは間違いなく、人生の財産なのだろう。
江戸さんの信条のひとつに、たしか、「会いたいと思った人にはできるだけ、たくさん会いにいく」というものがあったと記憶している。あぁ、そうだな……と思う。限りあることを知っているからこそ。私も、できるだけいろんな人に会いにいこう。
おっしゃんや江戸さんにくっついて、小倉にもいってみたい。大阪にも北海道にも。
会いたい人がいるから、ドバイやベルリンにだってきっと行くのだ。
世代を超え立場を超えて、多くの人と心を通じ合わせて同じ時間を大切に思いあう、
そういうことが、万年筆という趣味を通じてここに当たり前に存在していることが、奇跡みたいに思う。
この日は終わるのが名残惜しくて、前の記事で登場したおっしゃんと江戸さん、それに磯野さんたちとハシゴにハシゴを重ねてしまった。
下戸の私が普段絶対行くことがないような、おじさんたちが口を揃えて「ホッピー!」って言うような居酒屋にも入ってしまいました。ふふふ、大冒険だ。
他にもいろいろと、楽しい出会いがあったのですが……それはまた、次のお話で。
コメント
[…] かけがえのない経験になった。 (この日「演奏してよかった」と思う思い出深い出来事がもう一つあるのだけど、それはこの次に書きますね。これだけでもう、忘れられへん一日だよ) […]
[…] 昨日のこの記事で、haLuna’s Journalちょうど100記事目だったようです! […]
[…] […]