自分の「受け入れ難い感じ」に与する。

思うこと

心地好いものに対してよりも、「これは、嫌だ」と感じることに対してこそ、自分のパーソナリティは表れるのかもしれない。
違和感や、引っかかりや、ざらつきや、そういうもの。

 

私は「これは、嫌だ」と思うことや、「承服しかねる」ことや、「許容できない」という感触が明確なときは、それに従っている気がする。
というか、(社会生活であまり大きな声で言うのも恥ずかしい気もするのだが)それには従うことしかできない。

 

“わがまま”なようで、実はそうでもないこと。

 

それがわがままな振舞いになってしまうのは、1の「嫌」をもって10全部を投げてしまうときだと思っている。
「あの言葉がゆるせない」を、「あの人がゆるせない」に拡大してしまったとき。
「仕事のこの一点(一人の人の一つの言動)が嫌だ」を、「もう仕事辞めたい」にしてしまったとき。

 

それはなぜ起こるのかと考えると、逆説的だけれど、心が捉えた「いやだ」を看過してしまった時なのだと思う。

 

どんなに小さな棘でも、皮膚に刺さったままではずっと痛い。
腫れ上がってしまえば棘の周りも全部痛むし、膿んだりもする。
棘を抜かないまま新しい皮膚が覆ってふさがってしまうと、棘は閉じ込められてしまう。そこにある限りずっと痛いから、いつかは切り開かなくてはならなくなる。

 

 

だから、心身に刺さる小さな棘に、いつでも敏感でいたい。
傷つくことだけでなく、傷つけたことによって自分に刺さる棘も。
誰も気にとめないような嘘をついてしまったときに、自分にだけわかる棘も。

 

たとえば……、さっき、私が自分に対して「社会生活であまり大きな声で言うのも恥ずかしい」と書いてしまった、そのことに対する棘が、今ここにある。
恥ずかしいと思うこと。そう思わされていること。
いや、恥ずかしいと思わされている、と自分自身が思い込んでいること、の、棘。
反発心や反骨心の対象は、実は多くの場合、自分自身だ。
「前に言われたから」今言われてもいないことをまた言われてしまった気になって反発する。
時には、言われてもいないことを自分の頭が先回りして反抗する。
自分がびくびくしていることを、相手の威圧に置き換えたりする。
恥ずかしくしているのは自分でしかないという棘に気づいたら、きっとそれは自分の手で取り除ける。

 

自分の黒い気持ちと向き合わねばならない瞬間は誰しもある。きっとどんな人でも。
黒い気持ちの裏側には悲しい気持ちが、その中にはやさしさや愛がぴたりとくっついてもいるのだ。
私がそうであるように。

 

パンドラの匣からあらゆるものが飛び出した最後には、希望だけが残る。

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