「身一つ」に立ち返る日

思うこと

私が腕を負傷してから、結構いろんな人が「私も前に~」って体験談を話してくださっていて、それを聞くと全治何ヶ月とか入院したとか手術したとか、私より俄然大変そうで(そりゃそうだ、わたしゃコケただけ)、
けっこうみなさんやってるんだなぁ……と思ったりしてます。

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まあそんななので大したこっちゃないのですが、

 

腕が使えないという日常が今あって、
たったそれだけのことで、なんといったらいいのか

いざ、何かが欠けても変わらないものが自分自身なんだなとか

たとえば、この先自分がまかり間違って偉くなったり、まあ普通に歳をとって若い人よりちょっと経験が積まれてたり、それなりに下っ端ではなくなったりしても、
なんとなれば身一つで立っていられるような自分でありたいなあとか、なぜかそんなことを考えている。(腕のことは関係ないかもしれないが)

 

人間は必ず欠けているので、今それが目に見える形で私の身にあらわれているだけなのかもしれない。
不自由で、助けてもらって、でも不自由で欠けている私も誰かを助けていたりして、助けてくれる人もきっとどこか不自由で欠けている。
人間の営みはきっと、例外なく、そうなのだろう。

 

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変な話、誰かのためになにかしたい、みたいな欲求が高まっていたりもする。

 

でもそれはやっぱり、ただの欲求に過ぎなくて。

 

それはたとえば、寝込んだ時に「元気になったらあれをしよう、これをしよう」と無責任に思えるけれど、実際元気になったらケロッと忘れている、あの感じに近いのかもしれない。

 

それでも、今感じていることはたしかにある。

 

腕が自由でも不自由でも、たとえば、身一つになれる瞬間というのが誰にでもあるのだと思うけど、
私の場合はそういう意味でも、「歌うこと」と「文章を書くこと」が助けてくれているんだと思う。

 

歌う時は、今まで積み上げた実績も、名前も、お金も、何も助けてはくれない。
今この瞬間の私だけが頼り。
言葉を紡ぐときだってそうだ。

で、たぶん、なにかひとつ傷があったり、欠けたり、不自由だったりするほうが燃えちゃうんだな。
そういう自分のことをずっと、なぜだろう、と思っていたけど、これは、私の「身一つ」が試される瞬間だからなのだと、今回腕を負傷して気がついた。

 

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「身一つ」に自分を常に追い込むことはきっとむずかしい。人生を通していえば、とてもむずかしいことなのだと思う。
「身一つ」の覚悟でこつこつやればやるほど、地位も名前も上がっていってしまうし、ものがあれば楽をしたくなる。それもまた自分の積み上げたものの結果だから受け取っていいものだし。
「頭(こうべ)をたれる稲穂」になることがどれほどむずかしいだろう、とあらためて思っている。
謙虚でいることも、やさしく在ることも、私はきっとすぐ忘れて無神経な人になるだろうな。今だって、やらかしては「あぁ」ってなる。
でも、今まわりに居てくれている人たちが私を好いてくれているとしたら、そこが変わってしまうことはきっと致命的なはずで、少なくとも今の心地よい関係を失いたくない、と思う相手の顔がいくつも浮かぶ。
むしろ、身一つでいさせてくれるのは彼らなのかもしれないな。本当に感謝だな。

 

もちろん、「良い身分」になった時だけではない。
まわりが一斉にそっぽ向いたり、権威ある人に攻撃されたり、自分のアイデンティティを根っこからひっくり返すようなことを言われたりされたりしたとしても、「身一つ」の自分に誇りをもっていられるだろうか?
そんなことを考えて、ちょっと背筋を伸ばして歩く日々。

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