「救急車って普通に119って押せばいいんだっけ、あれっ」
ミサ後の教会、和やかな午後のひととき。緊張をはらんだ空気が微かに入り込んで来ると同時に耳に入ったのはそんな言葉だった。
声のする方に目をやると、備え付けの電話のボタンをこれでもかと強く押す人の姿が見えた。さっきまでこのテーブルで、来月の文化祭についての打ち合わせをしていた女性だ。
なにかただならぬ雰囲気を感じて騒ぎの起きている方へ向かう。救急車とか言ったな、誰かが具合でも悪くなったのだろうか。きっとどなたかがついて介抱しているのだろう。いつもの日曜日、いつもの教会。そんな日常の延長にありそうな、ちょっとした非日常の風景を思い浮かべながら近づく。
しかし、正面玄関の自動ドアが開くと同時に飛び込んできたのは、想像を遥かに超える光景だった。
「◯◯さん、帰ってきて! しっかりして」
叫ぶように名前を呼ぶ声。必死で心臓マッサージをする女性の姿。
泣き叫ぶ女の子を別のお母さんが抱き上げ、あやしながら連れ出すのが見えた。まだ幼稚園に通うくらいの年頃。おそらく、倒れている女性のお子さんだろう。心臓マッサージをしている横で、男性が何かを切羽詰まった様子で、しかし丁寧に伝えている。救急車を呼んでいるのだろう。
『帰ってきて』の響きの恐ろしさに、血の気が引くのを感じた。しばし立ち尽くしてしまう。
「……AED!」誰かが叫んだ。
「たしかこっちに」
という声に従ってついて走る。しかし、そこには消火器しかなかった。
「ねえ、AEDってどこにあるんでしたっけ!」
一緒にいた女性が、そばにいた別の女性に話しかける。
まだ歓談ムードの続くホールにいた女性は、AEDの言葉に一瞬反応しきれず「え? AED?」と鸚鵡返しに問い掛けてから、一拍遅れて事態を悟り、表情が一変した。
「AEDはね、ここにはないの。近くのS病院から借りてくることになってるはず」
「S病院ってどこですか! 行ってきます」
考えるより先に体が動いていた。
その場にいる人間で、最も若くて走れそうなのは自分だと思った。
「すぐそこだよ! その角の、青い屋根のところ」
このあたりは車通りも穏やかな通りで、広い敷地に駐車場つきの建物が連なっていることもあって見通しも良い。信号もない。
全力で走ればすぐだ。AED、心停止してから使うまでにどれくらい開いちゃいけないんだっけ? とにかく、秒単位で生存確率が減っていくことだけは確かだった気がする。
生存確率。
自分で思い浮かべた言葉にゾッとした。門の外に飛び出すと、さっきの女の子が抱っこされたまま、まだ大声で泣いているのが目に入った。何も考えられなくなった。
道を挟んで隣の建物の前を突っ切り、スピードを落とさぬまま申し訳程度の視認と耳頼みの左右確認で道路を渡って、民家の前を過ぎて角の病院にたどり着く。
正面玄関は閉ざされている。救急入口は途中にあったドアのほうだろうか。
踵を返し、再び走り始めたところで、派手に転倒した。
かなり、したたかに体を打ち付けてしまった。すぐに起き上がれなかった。
転んだくらいで起き上がれないなどというこがあるのか、と思ったほどだ。
あとから駆けつけた男性が、「大丈夫!?」と駆けよろうとしたので、遮って「大丈夫です! それよりAEDを」と叫ぶのが精一杯だった。
両手のひらから流血しているのが目に入った。アスファルトに突っ込んだから、きっと顎も擦りむいているなと思って手をやると、思っていたよりも水分の感触がした。
見えないけれど膝も痛みがある。けれど構っていられなかった。「生存確率」の単語が蘇った。
なんとか立ち上がって足を引きずりながら走っていくと、さっきの男性が救急入口のインターホンを何度も押しては話しかけている。
「だめだ、誰も出ない」
ノブを回しても当然鍵がかかっていた。ドアをドンドンと叩いてみたが、無駄なことは明白だった。
裏側に別の入口はないのか。
建物の壁に沿ってもう一度走ってみる。角を曲がり、駐輪場をすぎると職員駐車場があり、そこに別のドアがあった。ここも鍵がかかっているのではないかと思ったが、ドアはあっさり開いた。
「すみませーん!」
ためらうことなく中に入り、走りながら大声で呼ぶ。診察室のある並びはすべて消灯されていて、人の気配はなかった。
「誰かいませんか!」
廊下の突き当たりに光が差しているのが見え、さっきの男性の姿があった。ここが救急入口なのだ。
「すみませーーん!」
角を曲がるとロビーらしき場所、エレベーターがある。ここも真っ暗だ。
そのとき、誰かが後ろから歩いてくる気配がした。戻ってみると、真っ暗なので服装や顔はわからなかったが、女性らしき人と男性らしき人が一緒に歩いてくるのが見えた。
ここの患者さんだろうかと思い、
「あの、お医者さんって、どこにいらっしゃるかわかりますか?」
と話しかけると、怪訝な顔で
「え、お医者さんですか?」
と返されてしまった。
「あの、人が倒れて、AEDをお借りしたいんです、すぐそこの、カトリック教会の者なんですけど」
息も切れ切れにそう伝えると、表情がすっと切り替わり、
「わかりました!」
と動き始めるのをみて、あぁ、スタッフの方だったのか、とはじめて思い至る。
普通に考えれば、さっき私が入ってきたのはスタッフ通用口だ。中を歩いていた私もまた、はじめはスタッフの誰かだと思われたのだろう。
なのに「お医者さんは」と声をかけられたので訝しがられたのだ。
ばたばたと別の看護師さんもやってきて、ロビーに備え付けてあったAEDを外し、救急入口の鍵をあけて、教会の方まで一緒に向かってくれた。
先導するように走っていると、私の横を救急車がすり抜けていった。さっき呼んだ救急車が到着したらしい。
門から、お母さんが倒れていたほうへ駆けつけると、既に救急隊の人たちが処置をはじめていた。
心臓マッサージをしていた女性が、状態や自分の施した応急処置をてきぱきと伝えていた。
近くで見ていた人に話しかけてみる。
「様子、どうですか」
「息、吹き返したみたいだよ。意識も戻ったみたい」
よかった。本当によかった。
同時に、連れてきてしまった看護師さんたちに少し申し訳ない気持ちになった。
「晴奈ちゃん、どうしたのその傷!」
様子を見守っていたうちの一人が声をあげた。
案の定心配されてしまった。が、勝手に転んでその上救急車のほうが早く着いてしまったので、なんとなく気恥ずかしいものがあり、つい、
「いや、大丈夫です。はは」
と誤魔化してしまった。っていうか、自分で見えてないけどどれくらいひどい怪我なんだろう。まあちょっとコケた、よりは痛いのは確かだ。
ひとまず事務室に連れて行かれて手当てしてもらっていると、消毒は思ったよりしみたし、顎の傷からは血が止まらないみたいだった。「これでちょっと抑えて」と、二枚重ねの脱脂綿を渡された。
あのお母さんが大丈夫だったかどうかだけが気がかりで仕方なかったけれど、私も私で思ったより傷がひどいらしく、その場にいた何人かが私のためにも病院を探してくれていた。救急車はまだ搬送先が決まらず、教会にいるようだった。
「やっぱり、なかなか病院が見つからないんですかね、救急車」
「うん、日曜日だしね、ちゃんと検査できるところがなかなかやってないみたい」
「そうですよね、循環器じゃなおさら……」
自分で発した「循環器」の言葉に、なにか引っかかるものを感じながら話していると、手当てをしてくれていた方がなにかを感じ取ったように、
「晴奈ちゃん、まだ興奮してるね。大丈夫だからね、ゆっくり深呼吸してね」
といって、私の頭のあたりをそっとハグしてくれた。
「ゆっくり、息を吐いて。イチ、ニ、サン。吸って、ううん、胸じゃなくてお腹で吸うの」
言われて初めて、胸でしか息を吸えない自分に気がつく。なるほど、走り終えて息が整っても、思ったよりも全然落ち着いていないんだな。
「目つぶってね、ゆっくり吸って。お腹でね。歌う時とおんなじ。……そうそう上手」
言われるがままに息を吐いて、吸って、を繰り返していると、思いがけないことに、じわりと涙が滲んできて、そのうち流れ出して止まらなくなってしまった。
「びっくりしたんだね」
と、その場にいた人は口々に言ってくれたけど、違う。
違う、びっくりしたんじゃない。
私の父は、三年前、そう、ちょうど三年前の9月、おそらく18日に、心臓の発作らしきもので亡くなった。
「おそらく」「らしきもの」なのは、それが生き別れて住所も知らなかった父で、そして、亡くなってから数日の間発見されなかった、孤独死だったからだ。
さっき、倒れたお母さんを見たときに、自分の父と重ねたつもりは全くなかった。
父と別れた年齢と、泣いていた女の子の年頃を重ねたつもりもなかった。
どれだけ考えても納得のいく理屈が見出せないけれど、でも、説明のできないなにかがそのとき自分の中に湧きあがったのはたしかだった。
そこには、亡くなってからでしかお別れをちゃんとできなかったあの時のやるせなさや、亡くなったのち、父のことを知るにつれて高まっていった「まだ、話してみたいことがたくさんあった」という思いや……、たくさんの「まだ」「今じゃない」という強烈な想いの符丁があって、強く呼応してしまったのかもしれない。
恥ずかしいもみっともないも入る隙がないほどに。
気持ちが逸りすぎて、足をもつれさせるほどに。
でもこの時、他の誰でもなく「父が」私を走らせたのだと考えると、それはとても悪くないことに思える。
これも、父が私の「中」に遺していってくれた、大きな一つの「愛」なのだとすれば、それは誰かにまた繋いでいける形の「愛」に違いないじゃないか、と、ちょっぴり自画自賛もしてみようというものだ。
「……あ」
「どうした? どこか痛い?」
「左手が……動かせないっす」
つまりこれが、私が転んで骨折した話。
コメント
[…] ……ところが、以前に書いた通り、私はスタジオ練習直前に左手が動かせないという事態になってしまった。 そのため一時は多聞くんに伴奏をお願いすることにしたのだが、直前でなん […]