「羨望」とどう付き合いますか?・改

思うこと

きっとこれを読んでいるのは、何らかの目標を持っていたり、スキルを高めたいと思っていたり、あるいは言葉を使ってもっと何かを表現したい、と考えている方だろうと思う。
誰かになにかを伝えたい。
人の心をふっと楽にしてあげたり、勇気づけたり、そう、
『誰かの心に残るなにかを残したい』
そんなふうに思っていらっしゃる方も多いのではないだろうか。

私もまたそんな人間のひとり。
頭の中にふわふわと浮かんでいるつかみどころのない感触や、風景や、情緒。そういうものを、だれかと共有したい。
決して完全に一致することのない頭の中の世界を、誰かと少しでも分け合いたい。
分かち合って、そして、ちょっとだけ私のことも認めてほしい。
そんなふうに思いながら、今これを書いている。

私にとって、その大きな柱となっているのは、言葉と、音楽だ。
その重なるところに「歌」がある。だから、歌は私のアイデンティティそのもの。
こんな風に文章を書くようになってから、そのことをあらためて痛感するようになった。

 

 

この半年くらい、音楽をつくることをお休みしていた。
歌だけは歌っていたけど、新しく作るということをしていなかった。代わりに、というわけではないが、こうして来る日も来る日も言葉を綴った。

曲や歌詞を作ることに対して、どこか行き詰まってしまっていた。
スランプというのとも違う、それよりずっと手前のスタートで間違って入ってしまったような、そんな据わりの悪さ。
しっくりくる形がどうしても見つけられなかった。
人の手を借りることも考えた。けれど、ただ「借りる」のじゃなく、自分の色があって、それで人の色と重ねなくちゃ意味がないんだって思い直してやめた。
メロディのない言葉を紡ぐ時間は、その違和感に気づかせてくれるには十分に静かで、研ぎ澄まされていた。
ゆっくりと時間をかけて、言葉は私のよりどころになった。

だけど、心地よい変化ばかりが起きたわけではなかった。
なにかを目指したり、なにかに対して人並み以上の自信、あるいは強い思い入れを持ちはじめてしまうと、自分よりすぐれたものを持つ人を前にしたとき、ある種の感情に苛まれることが誰しもある。
よく「嫉妬」と混同されるけれど、これは心理学的には「羨望」に属するのだそうだ。

誰かの書いた文章を見て、こんな視点は持てなかったや、あぁすごいな……と思ってざわざわすることが、私はしょっちゅうある。
こんな言い回し、こんな表現、こんな空気感は私には出せないや、と一人で勝手に打ちのめされて、落ち込む。
言葉はある意味その人そのものだから、まるで自分を否定するような気持ちになってしまったりもする。
そんな時は、自分を卑下する言葉ならいくらでも出てきてしまう。
その人が優れていることと、私が劣っているかどうかには全く因果関係がないはずなのに。

これは音楽の世界でも頻繁に苛まれた感覚だった。
以前はあまりに頻繁すぎて、当たり前すぎて気づかなかった。
結局、音楽から離れた場所にいても、ぶつかる壁は同じようなことだったということ。

でも、文章をこつこつと書いていたおかげで、気づけたことがある。
それはとてもあたりまえのこと。
人は、ひとりひとりちがっていてあたりまえなんだ、いうこと。

その人の言葉と私の言葉がちがうのはあたりまえ、その人の言葉が私の中にないのはあたりまえ。
それを表面だけ真似ようとしても、根っこが違えば同じ花は咲かないし、花だけをもいできて付け替えてみてもやっぱり、自分に似合うものにはならない。

だけど、きっとそれは逆も言えること。私の言葉もまた、その人の中にないものかもしれない。

こちらから見ると、途方もない才能を発揮して繰り出されているように思える表現。ハッとするような切り口を、確かな手ざわりと息づかいで表現するそれは、もしかしたら、その人にとっての日常をただ、その人の言葉で切り取っただけのものなのかもしれない。

それと同じように、私がありふれていると思って捨ててしまっていることの中にも、「誰かにとって当たり前じゃないこと」「新鮮なこと」が沢山含まれていて、それは私の言葉でしか語れないことなのかもしれない。
そして、自分で思っているよりも、それを驚いて喜んでくれる人はいるのかもしれない。

 

 

誰かの文章をみるたび、誰かの曲をきくたび、こんなことは私は思いつきもしない、と思う。
わからないことは怖い。トレースできないことは怖い。
怖いから、憧れる。
憧れるけど、憧れるのはそれが想像もつかないブラックボックスだから。
仕組みがわからないことだから、怖くて不思議でワクワクするのだ。
それは、実際の書き手が持つ生々しさやリアルが見えていないから、ということもあるだろう。
自分のことはそうはいかない。自分の生々しさも手の内も、自分は知ってしまっている。だから自分は自分に憧れられないし、矮小化して見てしまいがちになる。
その時点で、なんとも不均衡なレースをそれでも繰り広げてしまう、結局はそれが「羨望」の正体なのかもしれない。

びっくり箱みたい。
だから楽しめる。
わかんなくていいんだよ、人のことなんて。

だから、私、音楽をつくるよ。

言葉でそうしてこられたように、音楽でも、以前よりは自分をさらけ出すことが出来るような気がする。
そして、以前よりもう少し、自分の音楽を愛せるような気がする。

自分を愛すること。思いひとつ。心づもりひとつ。
それがどんなに難しいことか、きっと誰もがよく知っている。

そう思えるようになったのは、言葉を通して、自分以外の人がそれぞれの歩みの中でぶつかる悩みや苦しみを知ることができたから。
羨ましくて仕方ないような文章を書くあの人にも、葛藤や鬱屈があるということがわかったから。
私のずっと感じていた(今も感じている)「手の届かなさ」がどれほど普遍的なものだったか、今はわかる。言葉の上だけのことじゃなく、しっかりとした皮膚感覚として。
だから、前よりはちょっとだけ、「ひとりじゃない」と思える。

 

 

もっともっと人と向き合いたい。音楽も言葉も、人と人とをつなぐものだ。そもそも根源的に、そういう欲求を私は持っていたはずなのに、自分の殻に閉じこもっていた。
もっと感謝したいし、愛を伝えたい。だから、私は書くんだ。歌うんだ。

――ところで、「羨望」についての心理学的な説明の最後の部分に、

『羨望を乗り越えたところに発達する、相対する情緒として感謝が挙げられる』

って書いてあるんです。
これ、なんだかちょっと深いと思いませんか?

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