「羨望」とどう付き合いますか?

思うこと

なにかを目指していると、
なにかに人並み以上の自信を持ち始めると、

 

あるいは、なにかが自分のアイデンティティに食い込むくらいのウェイトで思い入れはじめてしまうと、

 

その「なにか」において、自分より「すぐれたもの」を持つ人を前にしたとき、ある種の感情に苛まれることが誰しもある。

 

よく「嫉妬」と混同されるけれど、これは心理学的には「羨望」のほうに属するのだそうだ。(気になった人は「嫉妬 羨望」でぐぐってみてくださいね)

 

誰かの書いたものを見て、こんな視点は持てなかったや、あぁすごいな……と思ってざわざわすることがしょっちゅうある。
こんな言い回し、こんな表現、こんな空気感は私には出せないや、と打ちのめされたり。
言葉はある意味その人そのものだから、まるで自分を否定するような気持ちになってしまったりもする。
そんな時、卑下する言葉ならいくらでも出てきてしまう。
その人が優れていることと、私が劣っているかどうかには全く因果関係がないはずなのに、ね。

 

でも、文章を書くようになってはじめて思えたことがある。
あたりまえだけど、あたりまえなんだけど、
ちがっていてあたりまえ
なんだということ。
その人の言葉と私の言葉がちがうのはあたりまえ、
その人の言葉が私の中にないのはあたりまえ。

だけど、きっとそれは逆も言えることで。
私の言葉もまた、その人の中にないものかもしれなくて。
どこかで誰かを楽しませているかもしれないし、羨ましがらせているかもしれない。
自分で思っているよりも、それを驚いて喜んでくれる人はいるのかもしれない。

 

他人からみて、途方もない才能を発揮して繰り出されているように思える表現。
ハッとするような切り口を、確かな手ざわりと息づかいで表現するそれは、もしかしたら、
その人の日常をただ、その人の言葉で切り取っただけのものなのかもしれない。

それと同じに、
あなたが、あまりに当たり前でとるに足りないと思って捨ててしまっていることの中にも、実はそういう「誰かにとって当たり前じゃないこと」「新鮮なこと」が沢山含まれていて、それはあなたの言葉でしか語れないことかもしれない。

なぜなら、言葉も音も声も、人の数だけあるのから。

誰かの文章をみるたび、
誰かの曲をきくたび、
こんなことは私は思いつきもしない、と思う。
わからないことは怖い。トレースできないことは怖い。
怖いから、憧れる。

憧れるけど、憧れるのはそれが想像もつかないブラックボックスだから。
仕組みがわからないことだから。

それは同時に、実際の書き手が持つ生々しさやリアルが見えていないから、ということだってある。
自分のことはそうはいかない。自分の生々しさも手の内も、自分は知ってしまっている。だから自分は自分に憧れられない。し、矮小化して見てしまいがちになる。
その時点で、なんとも不均衡なレースをそれでも繰り広げてしまう、それが「羨望」なのかもしれない。

 

びっくり箱みたい。
だから楽しめる。
わかんなくていいんだよ、人のことなんて。

 

ところで、最初に挙げた「羨望」についてのページ、終わりの方に

 

羨望を乗り越えたところに発達する、相対する情緒として感謝が挙げられる。

 

って書いてあるんですよ。
これ、ちょっと深いと思いませんか?

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