夏の終わり、秋の夜長に。ぼくの、夢の話をしようか。

日常と非日常のはざま

外から、祭囃子がきこえた。

生憎の体調不良でうとうとしていた昼間。この近くの通りではお祭りをやっているらしく、随分と賑やかに練り歩く音が窓から入り込んできた。

去年の今頃は、今とは違う部屋に住んでいて、7階部分ではお祭りの音も遠く控えめだった。神社のすぐ裏手であったにもかかわらず、いつ始まっていつ終わったのかも分からないほどだった。
今は1階に住んでいるので、うちから二つ目の通りでやっているにもかかわらず、かなりの音量に感じる。
いや、体調不良のせいで体に音が響きすぎているのかもしれない。

ものすごく賑やかな中、寝入ったり目覚めたりしていたら、とつぜん、すっ、と静かになって目が覚めた。
静かすぎて戸惑う。お祭りは?人の声は?音は、……よく聴くと除湿機やクーラーの音は聴こえる。何が聴こえていて何が聴こえていないのか、自然なのか不自然なのか、半覚醒の頭ではどうにも判断がつかなくてもどかしい。再起動時はやっぱり少し動きが鈍い。
部屋が、さっきより薄暗かった。
だんだんと、「いつもの部屋」の空気が濃厚になってきて、違和感が消えていく。

視界が輪郭を取り戻すにつれ、
あぁ、お祭りが行ってしまったのだ
と悟り、少し寂しいような気持ちになった。

特段楽しみにしていたわけでなくても、逃してしまうとどうして後ろ髪を引かれるような気持ちになるのだろう、お祭りというやつは。
突然静かになったと感じたのは、祭りが夢の中でだけ続いていたからなのか。
暑さと貧血で寝汗をかいていて、気持ちが悪かった。
夏の終わりの置土産。

 


 

音が体に入ってきている間、夢と現の境をふらふらしていると、現実と幻想の入り交じった映像を見ていることがある。
同じ音を聴いていながら、全く違う場所で違うことをしていたり、またハッとして目覚めたり。人の声が混じって、それが意味のあるセリフとしてストーリーに組み込まれたり。
実際の音を空耳しているのか、それとも現実の音に紛れて何らかのノイズが脳内に生じるのか。それを自分で確かめる術はない。
そういえば、ドラえもんかなにかで、夢を録画する機械があった気がする。あれすごく欲しかったな。

私は夢をよく見る。気になる夢があると、夢日記をつけたりもする。
けっこうストーリーのある夢をみるほうで、起きてから筋を辿ってみてもちゃんと整合性がとれていたり、物語序盤のフラグがあとになってきっちり回収されていたりもする。
これは、普段文章を書いたり頭の中でものごとを組み立てたりしていることに由来しているかもしれない。

何かの要素が浮き上がって見えていれば、夢占いサイトでそれを検証してみたりもする。
ただし、調べて「へーこういう意味なんだ」と思っても、そのことをすぐ忘れてしまうので、今まで「当たってる!!」と思えた経験はほとんどない。
夢そのものは、けっこう長いこと覚えているくせに。

やばいのかな……と思うことが、実はある。

夢を鮮明に覚えていすぎて、「あれっ、これって現実だったっけ、夢で見たことだったっけ」と思うのだ。それも、子どもの頃ならいざ知らず、むしろここ数年のことだったりする。逆に子どもの頃にはあまりなかったと思う。

ついに、夢と現実の区別がつかないニンゲンになってきたのか……?

そして、逆に現実のなかで「これは夢か?」と思う瞬間も。
それは錯誤を起こしているというより、「以前は夢でよく見ていたパターンが現実に起きるようになってきた」ことによる現象という意味合いが強い。

そのひとつは、「目的地にいつまでも着かない夢」。なんだかアクシデントが続いてなかなか進まず、紆余曲折あって着く頃にはとっぷり日も暮れてみんな解散している……みたいな夢だ。
これは、先日電車の乗り換えを山盛り間違えまくって1時間半の遅刻をした時にがっつり感じた。まさに悪夢のようだ……!
(ちなみにその話をした時、自分以外の人がそもそも「目的地にいつまでも着かない夢」を見ないということを知ったのも衝撃だった)
ホント、そのうち、「追いかけられる夢」が現実にならないといいんですが。

そしてもうひとつは、願いが叶う夢。夢みたいな瞬間がやってくる夢。
これは大概、起きてから「あぁ〜……、夢かあぁ」とがっかりするパターン。心の奥底ですごく憧れる遠い願いだからこそ、舞い上がったしがっかりも大きかった。
……それが最近、まれに現実で起きるからびっくりする。慣れない。何か、自分が少し前までは想像もしていなかった世界への合格通知とかね。採用通知とかね。あっほんとに載ってる、とか、まじで、これを仕事にしていいの? っていうこととか。あと、すごく好きな人に(文章を)好きと言ってもらえたりとか。これめちゃくちゃ夢見心地になる。言ってくださる方ほんとありがとうです。

 


 

自分が、もがきつつも本当の意味で動けていなかった頃、もっと言うと自分の中でこつこつやる、という以上に動いていなかった頃はほんとうに、そういう「夢」ばかり見ていた。

その後とにかくどんどん出していこうと決めて、やれることを続けていたら、それだけで(自分では)信じられない方面の扉がパカパカ開いていってる。うそやろ? 詐欺やろ? って思うくらい、イージーに。

でもこれ、本来「向いてる」ってこういうことなんだなと。

夢を叶えた成功者の話って、こちらから見たら途方もない方向の途方もない距離を途方もないスピードで進んで行ってるように見えてしまうから、

めっっちゃくちゃ努力しているか
めっっちゃくちゃ才能があるか
めっっちゃくちゃ運がいいか

のどれか、あるいは全部に見えてしまう。手をつける前に「ほえー」と見上げて、首が疲れて諦めてしまう。

けど、実はそれは違うんだっていうことがわかってきた、かもしれない。

1.自分が動けていることだけが、周りをも巻き込みながら変わっていく

ここまでは同じなんだけど

2.頑張らなくても続くことだけが1.につながる

のであり、そして

3.頑張らなくても続くことのためになら、頑張りだって利く

のだということ。

それがどんなに、自分にとって簡単なことであっても、
きっと他の誰かにとっては難しくて、続けるどころか一回やるのでやっとだったりすることも多い。(というか、「誰にでも楽に出来ること」って実は思ってるほど多くない)
それはつまり必要としてる人がいるニーズがあるってことだから

私が誰かの成功譚を「ほえー」と見上げたのと同じく、
私が息するようにやってる何かを「ほえー」と見上げている人もいる。

そういうものって、頑張っているという意識すらなくて、ただ「ゾーン」に入ったら外のことや評価は関係なくつづけられて(この時点で「頑張ってる」人の多くは「評価」のプレッシャーに負けていってしまう)、

ひとまず、誰も見ていなくても平然とつづけられたらば、

評価したいという人が現れた時にも、人となにかをするにも人の手を借りるにも、まずは好きで作り続けた成果物がそこにあって、話がトントンと進む。
もしも成果物ゼロから「なにか一緒にやりましょうよ」となったら、それはほぼ100%自然消滅に終わってしまう。

また、仲間とこじれても、また見向きもされない時期がやってきても、

もとのように、ひとりでも平然と続けていられるもの。というより、やめたら生きていけないと思えるようなもの。
好きでも得意でもなんでもいい。
息するようにできることなら、続けていられる。

それを、「苦手」や「嫌い」でやるのはむずかしい。
錆びて重くなった自転車を必死でこいで、ほかの人の倍以上かかって同じ距離を走るくらいなら、べつの乗り物に乗り換えるか、目的地を変えるかしたほうがよい。
根性でそれを続けてもあなたの進みたい方には開けないし、身につくのは必要なのとはべつの筋肉だったりする。

好きを貫いて作り続けていくことは、けっこう厳しい道のりだとは思う。
それを助けてくれるのは「作り続けてきた自分」にほかならない。
作り続ける、を支えるのは「息するようにできる」くらい得意か、好きなこと。だと思うから、

好きなことを好きなだけ伸ばして、そのためにならしんどいことだって頑張れるよっていう方向の努力をする、がスタンダードになっていけばいい。
ラクしていい。私の苦手も、どこかには必ず得意な人がいる。私のニーズがその人たちの仕事になる。私の得意が誰かのニーズに合致して仕事になるのと同じに。

そうやって、どんどんアウトソージングしていける社会になればいいんじゃないかと思う。
それぞれが尊重し合える社会。
それが、多様性の社会を作るひとつの軸になっていきそうな気がしています。

 


 

夢の中の時間軸と現実の時間軸が実はパラレルになっていて、夢も夢の中でだけ時間が続いているのだ、という仮定をしたことがある人は少なくないと思う(そういえば、DQ6なんかはそんな話でしたね)。
もしかしたら私の中で、二つの世界がじわじわと近づいているのかもしれない……。

寝ながら見る「夢」も叶えるほうの「夢」も同じ単語で表されていて、これが英語でも「Dream」って同じ名前で呼ぶの、なんだか意味深だと思いませんか。

そんな、私の、『夢』の話。

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