自分の軸を持ちたい。

思うこと

って、また、万年筆のことじゃないですよ!(※万年筆仲間の間では、どんなペンも簡単に「軸」と呼んだりします)

なんか、そういうことを考えさせられる日だった。
またちょっとインプットが多かったこともあるし、人と話したということもあるし、交渉からのお断りっていうちょっとエネルギーのいることもこなしたし。

 

信頼、とか関係性、ということについて考えている。
……少し、意識が外に向いたということでもあるんだろうな。

信頼というのも主観なので、相手にとって間違いなく信頼に値するものが私にとってもそうだとは限らないし、逆もまた然り。
あまりに他人に信頼を置きすぎることは、時として、こちらからの押しつけにもなりうる。

オセロの黒と白。ちょっとのことで一気にひっくり返るし、そもそも白に立てば白が、黒に立てば黒が正義。
正しさなんてそんなものなのだろう。
この感覚を知ってしまってから、以前のような素早い判断がしにくくなってしまった。より細かく、検証と吟味の手順をとるようになった。そのため、結果的に「直感的な」理解が鈍ったような感覚になっている。

きめつけるのがこわいのだ。

どうやら私は違和感、歪に気づくのが早い方らしい。その違和感、歪でさえ、世界となんのつながりもなくぽっかりと存在することはないのだ。
かならず、そこに至る流れと整合性がある。
極端なことを言えば、私たちが見ているものはどれもマトモで、どれひとつとってもマトモじゃないのだ。

大いなる程度問題。

その中で、自分が、変わっているのか、どの程度奇特なのか、それともまっとうなほうなのか、そんなことを考えて位置づけることにどのくらい意味があるだろう?
結局のところ、私たちは「普通」という共同幻想を抱いているし、「なんの罪もない」という概算で自分を正当化するし、「程度問題」で人を責めてしまう。
そういう混沌のなかにあって、人と人をつなぐものがあるとしたら、それは何だろう。

いつも考える。

寛容?規律?愛?それとも自由?

自由は、権利だ。人を人たらしめる、人が人たりうるのに不可欠な自由意志。
自由意志を尊重されてはじめて、自分を生きることができるのだ。

 

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感情にはどうしてこんなに多彩なフェイズが存在しているのだろう。
どうして心は頭で割り切れないのだろう。
ときどきエラーを起こしたりしながら、それでもどうしてポンコツなまま運用されているのだろう。
いつかは消えてしまうものを追いかけたり、あとでどうでもよくなることに苛まれたりするのだろう。

そうやって今日も、私たちは右往左往している。

 

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とりあえず、今日はスマホでたくさんやりとりして通知もいっぱい来て、フリックしまくってそして今もフリックでこれを書いたので指先がいたい。。指紋きえる!(きえません)

コメント

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