書くことは願いを叶えていく?/「読まれないブログ」でも書き続けていくべき、大切な理由。

思うこと

さて、ブログをコツコツ、毎日続けるようになってしばらく経つ。

このブログをはじめたのが3月、最初は、何を書いて、何を書かずにいるべきなのか、迷うことだらけだった。
フォント変更やマーカーなんかを駆使し、段落や目次を作って体裁にこだわって作るのか。その中で伝えるのは日々感じることのまとめなのか、それとも情報まとめなのか。
あるいは、ただ文章を文章として書くことにこだわり、リズムや強調も文意の中で作るのか(小説やエッセイを書くみたいに)。
かと思えば、突然おすすめのアイテムを紹介してみたり、いきなり謎の厨二病さんがあらわれたりという迷走ぶり。

この半年のうちには、途中、体調不良とくに声帯結節なんかもあって更新が滞った時期があったり、
6月にはヒントをもとめてライティングゼミに通い初め、きちんと書くことを心がけるようになると軽い文章を書くことが一時的に難しくなったり……。
正直、毎日更新とはいかない時期も何度があった。

今回は第三次毎日更新宣言遂行中、といったところだ。

「書くもの」が定まっていなかったのは、ある意味「私」が定まっていなかったということなのだろうと思う。
しかしそれも考えてみれば、「私」というペルソナの複合体が日々文章に向かっていれば定まらないのがあたりまえで、それを絞るか否かという岐路があっただけのことだった。

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ところで、昨日は久しぶりに福島県いわき市にある「吹の湯」に泊まった。
いわきには身内が住んでいることもあってよく訪れているのだが、今年の春頃にたまたま選んだこの宿を私がとても気に入ってしまい、以来いわきといえばここに宿泊していた。

この前に来たのは5月だったと思う。
そのときに、チェックインから夕食までの時間でホテルのまわりを散策した。
いつも暮らす東京とも、自分の育った四国とも違う風景の中を歩き、徐々に傾く日を背に受けながら山道を歩く。いよいよ夕暮れ時になると、赤くてほの暗い空を背景にして電線に留まる鴉が切り絵のように美しかった。

その日の夜、私はなかなか寝つけなくて、窓の外を眺めていた。
昼間歩いたときに見た姿から一転、夜の森は静かな圧力を湛えて視界を埋めつくした。まるで、ひどくおそろしい、別の社会の入口がそこにあるような……端的に言うと、森の魔女が動物と暮らしているのでは、という空想と、どこまでも慈悲のない夜の空気がその住人たちを護ってもいるのだという雰囲気、ひいては、わたしを拒絶する、森だ。
その感触は、遠い昔の記憶に繋がっては心と頭をざわつかせたものだ。
そのときに浮かんだあらゆる言葉を、私はたくさんメモした。味わった感触のすべて、風景を描写するすべてを書き留めた。
書いているうちに朝になって、朝になると別の世界線が交わってきたように違和感が激しくなった。闇を白に変えてゆく波長は、人間には、時として強すぎる。
それを見る自分がどういう精神状態にあるのか、果敢にもたしかめながら、私はそれをただ書いた。

翌日、私はとある場所で
「昨日のあの空気を、文章にしたい」
と宣言した。この頃私はまだ、心象風景を思い切り出して文章を書く、ということをしていなかった。
半フィクション、だけど心の動きはリアル。そういうファンタジーのようなものを描いてみたいと思った。
まだ書き始めていなかった私にとって、それは壮大で難しい、高い山のように思えた。どう組み立てて収束させるのか見当もつかない言葉の束を抱えて。

そして今、3ヶ月経って、また再びこの宿のこの部屋を訪れて。
やはりふしぎな「現実と幻想の狭間」を感じる宿だということを再確認し、そうして、以前「書いてみたい」と思ったその世界にふたたび触れて、
いつの間にか、私はそういった空気感について自分の庭(ブログ)でガンガン書くようになっていることに気づいて、少し嬉しくなった。
小さな夢がちゃんと叶っていた。
もはや大いなる夢でも高い山でもなんでもなく、当たり前にそれを書くことができるようになっている。

(このブログの「夜blog」タグの発祥はここなのだ!)

そしてもうひとつ。
今回またこの宿に泊まって同じ空気を感じて、気がついたことがある。

相も変わらず、得体の知れない夜の森。そういう対象との向き合い方や、感触。それから、自分が受け取ってそれを言葉にする想定をしたときの、感覚。それらが、以前よりも少しはっきりとした輪郭を持って感じられるようになっていた。
文章を書き続けることで、自分に対してすごく理解が深まっている感じがある。いま、ざわざわとする自分の心にも何が起きているのかが、以前よりも理解出来る。
毎日、心を言葉にするという作業をつづけていると、こんなにも自分の感覚を感じ取れるようになるのだ。
これは、文章を書くということの、ものすごい効能なのではないだろうか。
読むこと・書くことが、思考のみならず自己理解も育てるのだ。

だから。
まだそんなにたくさんの人が読んでくれているブログでなくても、ときにひとつも読まれない記事があっても、
自分のために続けていることは、ただただ私にとって、ものすごく大事。
そして、そういうものこそが唯一無二の「コンテンツ」になっていくのだと感じている。

好き、っていうのはそこで力を発揮する。
「向いている」もきっとそう。
誰にも見向きもされないうちからひとり遊びを続けられる人がいちばん強いんじゃないかと思う。
大概どの道でも、注目されてうまく流れに乗っている人は、まずそこを自分で見つけてコツコツ楽しんだのではないだろうか。
もちろん、はなから戦略優位の人もいるということも、最近ちょっとわかってきた。
そんなふうに、道がひとつじゃないというのも面白い。
結果が出てはじめて楽しめる人もいるしね。
それでもたぶん、自分が楽しむ、というフェーズはどこかで必ず通っているはずだ。
なぜなら、やってる人が楽しくないことに人は寄ってこないから。
そんなわけで、心おきなく、

才能を、あそぼう。

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