一番ダメで気力も湧かないときに書いたものこそ大事、とやっとこさ思えた話

思うこと

「私あるあるだな」と思うことを、思い切って出していってみると「意外に、私だけじゃないあるあるだった」ということがある。
↑というか、これ自体がblogあるあるでしょうね

 

私のほんとうに、あるあるなのが、
「習慣化がなんとなくできそうになってきたタイミングで、どうしてもそれに手をつけたくない状態がくる」。
それも、だいたい、はじめて一週間とかそのあたりに。
たぶん、前回blogが途切れたのもそれだったと思う。

もう、死にたくなるような精神状態が数年ぶりにやってくるとか、そういうことが来てしまう。
これやって何になるの、というのが、blogや、そのとき習慣化したいと思ってコツコツやっていたこととは全く関係のないところで、全く比にならないレベルで起きて、文字どおり「そもそもの生存意義の確認」を余儀なくされ、習慣どころではなくなってしまう。

今日はまさに、そんな感じだった。
書く気力が起きない。続ける気分ではない。
だいたいこういう時は、書いたところで無気力な毒・大放出になるんじゃないかとか、読む人がいたたまれなくなるんじゃないかとか、おいおい、名前も出して書いてるのにどこまで自己開示する気だ、とか。
そういう、一種の煩わしさにも近いマイナス思考に、あっさり白旗を揚げてしまう。
気力と意義の両方からしぼんでいってしまうのだ。それがいつものパターン。

 

けれど、そういう日こそ書いておくべき、やっておくべきなのだろう、と今回は思えている。
どんな虚無と絶望にあっても。そう思って今日は書いている。

なぜなら、私(たち)が書き残しておくべきなのは、完成された生きる知恵よりも、比類なき成功理論よりも穏やかさや華やかさよりも、
でろっでろにダメだったり動けなかったり悶々鬱々としていたときに何を見たかであり、どんな力学が働いていたかであり、どう生き抜いたか、なのだから。
希望を与えるのはキラキラしたものかもしれないけど、思わぬところで誰かを助けるのはきっと、そういう時に自分のために書いて放流した言葉だったりするのかもしれない。

そう思えたのは、やっぱりここ最近で関わってくれているたくさんの仲間のおかげだったりするんだろうなあ。
今ここ、にフォーカスして暮らす、だけでなく、その過程を残す、不完全さをこそ見せていく。それこそがコンテンツになる。
そう話す人の意図が皮膚感覚的にわかってきたのかもしれない。

そういえば、昔、
「今の自分の書く曲が不完全すぎてダメすぎて、完成させるのが嫌になる」
と言った時、その時点で既に作曲やアレンジを仕事にしていた友達が
「私も思うよ。『また、ごみを作ってしまった』って思ったりするよ。でも、なんていうかなあ、その時の音楽は、その時の私にしか書けないから、そういう日記みたいな感じと思って書いてるよ」
と答えてくれたのを思い出す。その時は正直、あまりに感覚がかけ離れすぎて「頭ではわかるけども」状態だったけれど、今は少しだけわかる気がする。

このところずっと、「自尊心」がテーマだ。

私たちは、自尊心を損なってしまったら生きていくこともむずかしい。
自分を愛せない・誇れない時、他人の評価に自分から寄ってしまうことがある。近しい人から自尊心を傷つけられてしまうと、いかに自分が強いつもりでもやっぱり、揺らぐ。
自分にとって重要な、深いところにある要素は、絶妙なタイミングで絶妙にえぐられるとやっぱり、揺らぐ。
鎧を着込んだところで、どうしようもない。

自分が人の言葉や環境や、そういう外的要因に左右されていると、あぁ悔しいな……と思う自分がいる。
できることなら、人のしがらみや人との間に生まれる情けない感情や欲望からは脱したいし、悟りたいし達観したい。
なんども経験したのだから、そろそろ動じなくなっていてもいい。事実、動じないですむことだって昔よりは多い。

自分の芯を、軸をしっかり持て、という意味の言葉をよく見る。
それに、人の言葉がきっかけだったとしても、揺らぐということは自分のテーマであり自分の課題だ、とも。それは本当にそう思う。
自分の身に降りかかることを自分のこととして受け止めるのは、とても大切なことだ。
でもだからといって、揺らぐ自分の弱さを、弱い、と断じてしまうことはない。

生身で生きている以上、どんなことにも「絶対」はない。どんなに自分を信じても、あるいは信仰を強くしても。
ひとが生き、喜び、感動し、共感し、分かち合い、別れを惜しみあう心には、同じだけ、傷ついたり悲しんだり絶望したりする可動域があるのだから。
だから、傷ついたり絶望したり死にたくなったりする自分を否定しなくて良い。
死にたくなるのは生きているから。心がちゃんと生きているから。
自尊心が損なわれるようなことがあったなら、怒っていい。
怒りは、自分が自分のために立ち上がる気高い感情なのだ。

 

ずっと前にこういうことは卒業したのになあ、と思うことが、私はよくあった。
だけど今日は、「卒業」という言葉で自分を追い込まなくていいんだ、と思えた。
手放したものなのだから、と、手放したはずのものにまた執着しそうな自分を認めない。そんな風に考えなくて良いんだ。
何度でも同じテーマで悩んでいいし、何度同じテーマで書いたっていい。
書いてみれば、必ず「今日」の言葉が出て来るはずだから。
それは紛れもなく「過去」ではなく「現在(いま)」を生きる自分自身なのだから。

 

だからこそ、書き続けることは重要なのだ。何より、自分にとって重要。
気づきのない一日はないし、何もない一日もない。

私はいつも、ベルトコンベアみたいなものを想像している。
目的地は一つではなくて、分岐をくりかえしながら動いて、斜め上に向かってぐんぐん進んでいく。
進むほど、遠いところもさっきまでいた場所の全貌も、実は思ったよりたくさんのベルトがあることも見えてくる。
そして、周りを見回してよく学んだ日も、全然動けなかったような日も、ちゃんと一日分進んでいる。
神さまのベルトコンベア。
むしろ、無理にそこから降りて手回しで進めようとしたりするほうがうまく進めなくなるから。
自分の持って生まれた「道」に逆らわず、人の「道」を羨まず、ここちよく流れる方を向いて歩いたり休んだりする。ときどき、別のベルトと並走したり、離れたりを繰り返しながら、私だけのベルトを往く。

コメント

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