トッド・ラングレンと、裏切りと倒錯

思うこと

新しくて懐かしい音楽を聴いているので、今夜のちょっと涼しい空気と相俟って、なんだかむかーし見た風景だとか空気感だとかを肌で感じたりしている。
今日蘇ってるのは、東京で暮らし始めたばっかりの頃のいろいろ。
始発で空港に通ってお昼すぎには仕事が終わって泥臭い街に寝泊まりしていた頃、はじめて東京駅周辺をうろうろしたり、日本橋でフリージャズを聴いたり、横浜でライブに出るようになったり川崎で映画観たり。
といっても遊び歩いていたかというとそうわけでもない。基本は毎日、帰って寝るだけの人。
下北沢でなんとか自分が着ても無理がなさそうな服が揃うお店を見つけて、困らない程度に買っていた服は今見ればみすぼらしくて痛いファッションだったかもしれない。
化粧もネイルもまだまだ今みたいにできなかった頃だ。

あーそっか、トッド・ラングレンってその頃に覚えたんだっけなあ。

東京はまだまだよその街で、全然根っこを下ろせる気がしなかった。というより、人生に根っこを張る覚悟が全然持てなかった。どこに行っても、誰と過ごしても、自分が昼を昼らしく夜を夜らしく、眠って起きて笑って泣いて怒ってまた日が昇って、という毎日を送るということが想像できなかった。
強いて言うなら、昼を昼らしく生きるということは夜を捨ててしまうことだと思えた。ここでいう「夜」というのは、自分の内面を旅する時間だ。実体のある日常とは別に、心象風景を生きるラインのことだ。
それを手放せないのも、捨てるのも嫌だった。

自分の「夜」が捗る音楽をこよなく愛したし、文字を書くことを愛したし、そういうつながりを愛したと思う。

その頃できた友達がいた。
東京で、勇気を出してはじめて行ってみた「カラオケオフ会」なる場所で知り合った女の子で、たまたま住んでいる場所も近かったこともあり、いつのまにか仲良くなった。
自分とはまったく違うタイプの女の子。おしゃれで、可愛くて、よくも悪くも女の子らしい性格の、ときどき誤解されやすい、でもそのうちの何割かは誤解ではなく妥当で……という感じの子。
ちょっと複雑な環境で暮らしていて、不安定なところがある子だった。深夜に家出してきた彼女が電話してきて迎えに行ったこともある。「オフ会」でトラブルに巻き込まれることも多かった。
……巻き込まれる、といっても、今となっては彼女から聞いた情報が全てなので、どこまでが本当なのかは定かではない。
というのも、いろんな人とトラブルがあったりしたあとしばらくして、彼女は突然、SNSに中傷記事を投稿したからだった。
名指しではないけれど、あきらかに、私に対する中傷。
しかも驚いたことに、その内容は彼女がオフ会でトラブルを起こしていた当時、彼女のほうから私に散々話してきたあの人やこの人の動向、悪口、そういうものが全部逆の矢印に……つまり、「私が」彼女に言ったこととして書かれていた。
私を評して、「その人への嫉妬や、やっかみのこもった醜い笑顔」とまであったので、呆れを通り越して笑ってしまったのを覚えている。いやいや、私、その人たちの悪口を言うほど付き合いそのものがないよ。心当たりがないにもほどがある。
その少し前に、彼女がトラブっていた相手と急にSNSで関係が復活しているのも知っていたし、妙に仲の良さそうなコメントのやり取りをしているな、ということは気づいていたけど。それにしても、なんじゃ、こりゃ。笑

ひとまず、「読んだよ」のイイネを押してみたところ、すぐさま記事は消されていた。
「事実とはいえ、お見苦しいことを投稿してしまいました」とかなんとか言い訳が添えられていたと思う。やれやれ。

一つ、彼女をかばうわけではないのだが、悪意があって嘘をついたとは限らないと思っている。というのも、彼女は以前から、人から聞いたことと自分の体験が混ざってしまうところがある子だった。私がその子に言ったことを、自分で思いついたと誤認して私に話したり、他の人に話したりということはままあった。なんだかよくわからないが、この件もそういうことの延長に近いのかもしれない、とは思う。
とはいえ、私の「イイネ」に対する反応の速さからみて、わかってて言ったか、あるいは直後に気がついた(思い出した)か、というところかなとは思う。
それからほどなくして、私は彼女からひっそりと友達解消されていた。
まあそうだよね、という感じだった。そういう子だって知ってて付き合っていたもんね。程度問題に関していえば予測外だったけども。
これで、彼女との関係は一旦完全に切れた。

まあ、一緒に過ごした期間はそれなりにエキサイティングだったし、女子二人で服を買いに行ったり、お茶したり、その中で瞬間的にでもなにか一生懸命考えて話してくれたこともたしかにあった。だから私にとっては今でも、それなりに楽しい思い出というか、「女子っぽい時代」に花を添えてくれた数少ない友達ではある。

それから。
私は、客観性と常識を徹底して求められる種類の仕事の中で自分の痛み(痛さ?)と向き合い、適性が足りないながらもそのあとの自分をつくる要素のいくつくかをその時期に得て、端的に言うと、まあ、多少は大人になった。たぶん、なったと思う。
健全な「昼」の空気の中に生きる時間も以前よりは増えたけれど、それで「夜」の自分を捨てることになったかというと、案外そうでもない。
自分一人の時間を過ごしている時はいつも、あの頃とあまり変わらない自分がいる。そしてほっとする。

 

息づかいや手ざわりを感じる音は、時代をこえて瑞々しい。
トッド・ラングレンの音は自分の、そんな歪な人々と触れ合った歪な時代を映している。
どこか欠けていて、それでいてとてつもなく美しいサウンドが、そういう瑞々しい自分を連れてきてしまう。
その音を聞きながら見るこの夜景は、東京に来た頃に夜行バスの窓から見たのと、あるいは「彼女」と終電まで喋った帰り道に見たのと、今も少しも変わらない。
そのことに気づくたび、人知れず、にやっとしてしまうのだ。

音楽を切符にして、私はいつでもその時代に行ける。
あるいは、ずっと昔に考えてたみたいに時間軸は螺旋の形をしていて、あるサイクルでよく似たちょっと違う景色を繰り返し見るようにできているのかもしれない。
いずれにせよ、私の脾臓の奥らへんにはいまもきっと、同じテクスチャをもつ音楽が滔々とながれているのだ。

コメント

  1. カフェのメタファー より:

    記事、拝読しました。
    「音楽を切符にして、私はいつでもその時代に行ける」
    僕にもそういう音楽がわずかながらあります。
    甘酸っぱい思い出、新鮮な思い出、苦しくとも耐え抜いた思い出。
    その音楽を聴く度に、その時代に戻れる。
    だから音楽は好きです。
    世界にあふれるあらゆる音に耳を澄ますと・・・
    仰る通り、世界は音楽でできているのかもしれない、とも思います。

    そういえば。
    最近トッドラングレンをある方から勧められ、以来、万年筆片手に毎日聞いています。
    ”7曲目の「A dream goes on forever」”
    珠玉ですね。

    今聴いているトッドラングレンもまた良き思い出の切符となって、
    この後何年経とうとも、今のこの時を思い出させてくれるのでは、と思います。
    勧めて頂いた方には、本当に感謝です。

    • halunautausagi halunautausagi より:

      わあわあ、コメントありがとうございます……!
      しかも粋なことをおっしゃる。(´∀`*)ウフフ
      本当に、音楽ってそれ自体が思い出のアルバムのようなところもありますね。楽しかったことも、悲しいことも連れてきてしまいます。
      でも、世界中にそういう欠片が散らばっていると思うと、これまたロマンティックでもありますね。
      人も出会ったり別れたりしながらいろんなところに散らばっているんですね。