このご時世、キラワレることを避けては通れないから。

思うこと

日々ものすごい勢いで、情報が流れてゆく。

ニュースやコラムやメイクのコツや、5分でできる料理のレシピばかりではない。
その多くは、数多くの人たちのそれぞれの日常や、眩しいほどの意思表明や、ときに重くてつらい胸の内や、……

ここまで書いて、早くも筆が止まってしまった、
あぁ、「書く」ことってどうしてこんなに難しいんだろ?
SNSの雑多なことを書こうとして、「雑多」という言葉にさえある種の危惧──自分の選んだ、関わりのある人たちの魂のこもった言葉を「雑」とは何だ、といったこと──を感じてしまうし、こうして具体的な実例を並べようとすれば、特定の人のこと(たとえば、あなた)のことではないよとか、悪意でも善意でもないただの事実だよ、ということを示すのに膨大なエクスキューズを必要としてしまう気がして、挫ける。

個人的な事案、個人的な思い入れについて書く時はまだいい。(それでも、関係する人々に対してはとても気を遣うけれど)
私は文章を書くことそのものは好きだし、苦手でもないと思う。けれどその一方で「一般的なこと」とか「○○というものは」とか、そういう主語になると、途端に難しさが爆上がりする。
これは、公開非公開に関わらず、だ。
言葉にする、ということは「切り分ける」「切り離す」そして「明確にしてしまう」ことだ。
だから、扱いがとても難しい。
そして、まさにそれこそが表題につながるひとつの事例であったりもする。

 

本題に戻ろう。

 

SNSが、という話をしようと思ったけど、とりわけ、文字だな。
文字は綻びをすぐさま明らかにするし、見た目にはすべてのパーツの大きさも色も均等で、その中から文意を汲むことにほんの少しエネルギーが要る。まして、ニュアンスを読み取るとなるとなおさらだ。
「その場にいる人どうしの間で、ある程度本意が伝わればよくて、後腐れがない」口頭でのやりとりとの違いはそこだと思う。
(顔が見えない、というのもある。顔が見えるというだけで、人は相手の気持ちを好意的に捉えやすくなる。)
SNSでは、蓄積型の文字情報が常に動いていて、その上に反応のあるなしが数値化されて優劣がつく。反応が大きければ大きいほど、様々なリスクも負うことになる。
何年も前の綻びが掘り起こされて炎上することだってある。
どんなに言葉を尽くしても、言葉が完全になることはない。それを目指すと途端に、発信することは難しくなる。
……また、善し悪しの話になってしまった。
私はSNSが嫌いではない。恩恵もかなり受けているし、従来つながることのなかったであろう人とつながったり、リアルタイムで言葉を伝え合ったり、化学反応が連鎖して爆発的に実生活に影響するという経験が無数にある。っていうか、ここ数日とくにそれを感じている。正直めちゃくちゃ楽しい。SNSやってて今が一番楽しい。

 

完全性と汎用性を自分に課し始めると息苦しくなるのかもしれない、と思うようになった。

 

SNSは、ときに自分の卑しいまでの欲や、劣等感や、焦燥感を浮き彫りにする。ある種過剰なまでの、他者との関わりがそこにあるからだ。嫌でも目に入る。嫌でも、相手の目にも入る。いいとこばかり見せたいと思っている訳ではなくても、人が見て快く感じないであろう部分を見せないように気遣った結果「いいとこばかり見せている」ように映ることもある。

SNSに限らず、
劣等感をおぼえる時によく言われるのは「その人にはその人の良さがあってあなたにはあなたの強みがある。人と比べることなんてない」というようなことだったりするけれど、
でも本当に劣等感を覚えるのって「自分が強みだと感じていることについて、自分よりすぐれている人」に出会った時だったりするよね……

だけど、そこにフォーカスする必要はないのだ。
それって突き詰めるとやっぱり「似て非なるもの」だったりする、
そして今以上に「あぁ、非なるものだな」と自分に信じてもらうためには、もっと自分自身を掘って掘って明確にしていくしかないのかもしれない。
その先にあるのは「量」や「質」だけではない何か(それはきっと、固有の形だったり、周波数や波形だったりするのだ)をそこに見出すことなんじゃないか、そんなことを思う。

それが強みだと思うなら、やらずに「あれは、酸っぱいぶどうだ」と言って捨てるのは勿体無いし、やらずに「本気出せばすごいハズ」と言うのもなにやら悲しい。
ましてや、「本気出せばすごい」かどうかの答えが出ちゃうのが怖くてモラトリアムしちゃったら、後悔しか残らない。

得意だけを生かすことにこだわる必要だってない。
たぶん大事なの、そこじゃない。むしろ、「何」にも「成って」いない私が、得意や苦手を仕分けしきっちゃうのはきっと早計だ。
「苦手だろうな」っていう意識を「やってみたい」が超えたら、何度目の挑戦だってやってみたらいいよね、と、自分に対しては思うようにしている。
やってみたければ軽率に手を出して、これじゃないなって思えば「やり遂げねば」なんて観念に執着せず軽率に手放して、残ったものをじっくり育てて。
泥団子100個のうち、ひとつでもピカピカにできれば最高だしそれは歌であってほしいけど、ほかにも「ビカビカ」くらいには磨いてみたいものがたくさんあるのだ。
それを、ものわかりよく諦める理由がひとつもない。そういう気分になっていることを大事にしたい。

刺激し合って牽制もし合う。そもそも、SNSってそういうものだ。そこに「文字の難しさ」が加わって、なおややこしいことになるのもよくあること。
他者とのせめぎあいの中で自分の嫌な面にも出会うし、自分がそうだということは、関わる人のうちのいくらか、きっと多くはそういう気持ちを持っていないわけではない。その中で、悪意未満のマイナス感情を向けてしまうことも、向けられることもある。
きっと私もどこかで「煩わしいな」と思われている。関わる人が増えれば増えるほど、関わるフィールドが広くなればなるほど(そしてそれが必須である道を選んだからには)、これは避けようもない事実なのだ、と受け入れるしかない。
そのなかで、「苦手」を敢えて発露する、というのもまたそれ特有の勇気がいるものだ。
事実、「熱量」をひとたび離れた私はこんなに臆病で、おどおどしながらこれを書いている。こういう内容めちゃくちゃ向いてねえ、と思いながら書いている。
いいぞ。私はいま「向いてなくても、とりあえず、なんでも書いてみる」という実験中なのだ。笑
そしてこうして書いてみると、自分の中のぼんやりしたものがそれなりの客観性を持ちはじめるから面白い。
なるほど自分、こういうことを考えていたのか。

たぶん、他人にキラわれてもある程度大丈夫になるのって。自分を(少なくとも今よりもう少しは)信頼できるようになった時なんだろうな。
なんとなく、そんな気がしている。

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